人新世のパンツ論①―プロローグ

【ヒトはパンツを穿いて成長する】

 お気に入りの使い慣れたマグカップでさえ、それが陶器製で硬くて丈夫であっても、いったんヒビが深く入り込むと、〈そろそろ寿命が尽きる頃だな…〉というような感を抱く瞬間がある。こんな話を突然持ち出すのはやぶさかではないが、お気に入りのアンダーウェアの場合はもっと悲しいことに、知らず知らず穴が空いていたり破れたりしているものである。穿いている本人がなかなか気づかない。
 それは日々、忙しく働いている誉れだと思いたい。
「ほれ、あなた、お尻が破れておいでですことよ」
 あっと思って鏡を見たら、ちょうど臀部の谷間のあたりの繊維がほぐれ、穴が空いているではないか。
〈おやおや、いよいよ次に穿く時には、お尻がぺろりと顔を出すかもしれないな〉
 そう思いつつ、なかなか新しいアンダーウェアを買おうという気にはなれなかったりするのは、いったい何故であろうか。

男がパンツを買い替えないのは不況のせい?

 昨年の4月、Gigazineの記事からこんな話を知った。
 経済学で景気を予測するための、「まあまあうまくいくヘンテコな不況予測法」というのがあるらしい。
 一つは、不況が近いと超高層ビルがいくつも建つという「超高層ビル指数」。もう一つは、不況の時に口紅の売上が伸びるという「口紅指数」。それから、不況の時に出会い系サービスの会員が増え売上が伸びる「出会い系指数」――。
 そしてこれ以外に注目に値するのは、最もヘンテコだと思われる、「男性下着指数」(MUI=Men’s underwear index)。これは、アメリカの元FRB議長アラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)氏が支持する、“男性用下着インデックス”のこと。
 不況の時に売上が落ちるのが、メンズ下着だという説。実際に、サブプライム住宅ローン危機から世界金融危機にいたる2007年から2009年にかけて、メンズ下着の売上が大幅に減少し、経済が回復に向かった2010年以降、その売上も回復に向かったという。
https://gigazine.net/news/20220402-alan-greenspan-recession-underwear/

 ちょっと中途、腰を折るが、ここでいうアンダーウェアあるいはメンズ下着というのは、アンダーパンツのこと、つまり「男性が穿く下着のパンツ(pants)」のこと――と思っていただきたい。
 私がパンツの新調をためらったのも、財布の懐事情が、あまり潤っていなかったせいかもしれない。あるいはもっと違う理由があったのかもしれない。しかしながら、おそらく、日本人の男性の大半の人は、自分の穿くパンツのことなんて、経済なんかとは無関係で、「どうでもいい」と考えている――。

【ヒトはパンツとともに喜びや悲しみを経験する】

パンツは邪魔なものか?

 パンツにこだわっています、という男性は少数派で、致命的に破れたり汚れたりしないかぎり、それ以外の理由で新しいパンツを買おうと考える人は、少ないのではないか。こだわりがない人は、それがトランクスだろうとブリーフだろうと猿股であろうと、安直に隠せるものならなんだっていいんじゃね? と思っている――としたらいい過ぎだろうか。

 かの直木賞作家、朝井リョウさんは、あるエッセイの中でこんなことを述べている。

私にとって服とは寒さを防ぐもの、または恥部を隠すものであり、逮捕されないために仕方なく着ているといっても過言ではない。もし全裸で町中を歩いたとて逮捕されない世界だったら、私は服を着ないと思う。

朝井リョウ著『風と共にゆとりぬ』「ファッションセンス外注元年」より引用

 ここでの朝井氏の料簡は、あくまで服に関する言及である。服装のセンスがいかんせん自分は独特すぎるから、とりあえず単純に身を隠すものとしてそれを着ているのであって、全裸でよろしいという国に住んでいるのならば、私は「服を着る気はない」というわけだ。

 また、直木賞作家の朝井氏はこんなことも述べている。

とにかく、普段着であれ正装であれメディア出演時であれ、わたしと服は相容れない存在なのだ。(中略)もし「朝井さんにとって服とは何ですか?」と尋ねられれば「私を全裸ではなくしてくれるものです」と即答するほかない。私が着る服に「法律を守らせる」以上の役割を課さないでほしい。

朝井リョウ著『風と共にゆとりぬ』「ファッションセンス外注元年」より引用

 お見事。著名な作家の文明論、社会文化論的名答ではないか。
 もはや、直木賞作家の朝井氏にとって、「身を隠すものとしての服」と「下着」の区分は無いようで、「自分と相容れない服」というものを着る気はさらさらないが、下着だけはいくらなんでも身にまといますよ――という考え方も、無いことになる。
 服も下着も一緒、何が違うのさ――。言い換えれば、そこにメンズ下着という概念すら、存在し得ないのだった。

パンツ論★事始め

 なんたる悲劇。パンツは邪魔なものであった…。
 大多数の男性にとって、メンズ下着は、いや今穿いているパンツそのものは、その存在の価値が認められていない――。この私の過剰なる仮説は、なかなか杞憂で終わらないようである。
 とはいうものの、えらく興奮している私も、以前においては直木賞作家の某氏、いや朝井リョウ氏の思考と全く同じ。“裸族の楽園の国”信奉者の一人であったことを付け加えておきたい。

 ここからは、ことさらパンツに関して言及していく。
 遡れば5年前に、「健脚ブリーフ」という曲の制作にともない、One Novaと高野真一さんのザミラの赤パンに端を発して、パンツについてあれこれと書いている。
 そうそう、フランスの画家フレデリック・バジールの油彩画「夏の情景」にもふれた。
 あの油彩画の中の青年が穿く縞模様の美しいパンツは、今日のモダンなボクサーパンツのデザインの原点ではなかったか。こうした5年前の言及からさらに跳躍して、パンツに関する様々な言説なり神話なりを、新たに創り出して、サブカルとして盛り込んでいこうではないかと私は目論んでいる。ぜひともみなさん、この趣旨にお付き合い願いたい。

 さて、女性の場合はよく知らないが、男性の場合、脱衣所やトイレといった空間において、他人(それは親密な関係の家族やパートナー、学校のクラスメイト、どこで知り合ったかまるで憶えていない気心知れた友人、会社の同僚、スポーツクラブのメンバーなど)にパンツを見られることが、しばしばある。
 この場合は、「チラ見」という奇遇なる作法で他人のパンツと邂逅する。見たくなかったがゆえに、偶然見てしまったにもかかわらず、その象形は脳裏に濃く印画されてしまうことがある。
 しかしながら、立場が変わって相手に「チラ見」をされた時、もし「ダサいパンツ」(=安っぽい生地だったり、よれよれのトランクスだったり、場を和ませる温かみが感じられない柄パン)を履いていたりすると、相手に怪訝な表情をされないまでも、おそらく一瞬曇ってしまった心持ちが眩暈となって顕れ、知らぬうちにその関係性がバカバカしく見下されるようになるのは、御免被りたいものだ。
 だとすれば、「チラ見」に対する適切な心理的防護――いかにも自然美の感覚に近い戦略的な「おしゃれ」の極意は、“秘するセンスの技量”として必要不可欠なのではあるまいか。
 そう、つまり肝心なことは、パンツにおける「清潔感」と、多少手間をかけて「おしゃれ」を演出する嗜みではないかと思うのである。

 「清潔感」と「おしゃれ」の演出は、何もしなくても、すなわち生まれついたままの身体にただ意味もなくそれを張り付けているだけで得られるものではない、ということは先に述べておく。朝井氏の服装の話ではないが、裸でブラブラとした“具えもの”の上に、なにかをあてがっておければいい、そこにイチヂクの葉があればよろし…云々といった発想では、社会的秩序や私生活の程よいステータスは得られないのである。
 センスの良いパンツを穿いて、美意識をちらつかせたい――。実をいうと、それが本音の部分だったりする。
 ともかく、「パンツを穿くこと」について、やはり個人の努力(その人の才能ではなく、培われた人間的度量)の問題となってくるのは必然なのだ。

フンドシという勇ましさの象徴

 逆に日本人の多くの男性がどうしてパンツに対して、無頓着なのか?
 その歴史的な背景を紐解いてみるべきではないのか。

 日本人は長いあいだ、褌(ふんどし)なるものを穿いてきた。フンドシとは何か――。平凡社の『世界大百科事典』(1967年初版)で「ふんどし」をひくと、こうある。

 男子の腰をおおう一連の帯状の布片。これを跨間(こかん)から腰部に巻きつけて着装する。《和名抄》をはじめ、後世の学者たちはこれを中国風の〈膚袴(はだばかま)〉と解しているが、これは奈良・平安時代の上流男子が大陸系統の袴状の蔽腰(へいよう)服物を着用していたからであろう。しかし、おそらく当時の下流男子は上古以来の、これとは別系統の帯状の蔽腰服物を着用していたと思われる。《古事記》《日本書紀》《万葉集》などにみえる〈たふさぎ(犢鼻)〉については今にわかに断定しえないとしても、平安時代の〈侍中群要〉などにみえる〈犢鼻褌〉はあきらかに帯状の蔽腰服物で、その着装した状態は《地獄草紙》などの絵巻物に描かれている。

平凡社『世界大百科事典』(1967年初版)より引用

 またフンドシは、地方において、したおび、こばかま、さなぎ、しめこみ、すこし、たんな、とうさぎ、ふごめ、へこ、まわし、などとも呼ばれ、先の本では《昭和期になって、既製品のメリヤス製さるまた(猿股)やキャラコ製パンツが普及するにおよんで、ふんどし類の着用はしだいに減少しつつある》と結んでいる。
 とはいえ、フンドシは、一般の習俗的な下着としては途絶えたものの、一部、帯状の形態と生地と組み合わせた“モダンな褌”として、おしゃれ勝負パンツ的なカテゴリーで脚光を浴び、販売されていたりする。
 これとは違い、従来の古典的なフンドシに関しては、今なお、地方の“はだか祭り”の祭事において、伝統着衣として受け継がれている点はふまえておかなければならない。

 フンドシは、日本人の男子にとって、最も清楚で勇ましさを想わせる下着であった。
 私が住んでいる地域の、昭和期の風俗文化の変遷を知ることができる市政史の本には、河川で泳ぐ子どもたちのフンドシ姿を写真で見ることができる。
 フンドシほど、気楽なものはなかろうと豪語する政治家なり作家なりの弁を、別のなにかの本で読んだ気がする。古代では、上流男子が巻く下着としてそれなりの貴族的な趣があったのかもしれないが、昭和のフンドシは、単なる習俗的な下着としての価値以外、何ものでもなかった。むしろ多少、勇ましくさらけ出せる下着であった。

 軍国主義の戦時下のせいが大きい。
 男子はフンドシを穿いていることをさらけ出すことにより、それ自体の清潔感よりも、時代的な美意識をちらつかせていた。フンドシはもともと、元服の意があったから、そこから男子としての勇ましさや潔さを象徴させるものがあったかと思われる。
 若年の子どもたちがそれを巻きつけることによって、彼らが誇らしげな気分となるのは、本来的にはまだ未成熟にもかかわらず、戦時下の国威発揚の要因もあり、元服の意を子どもたちにも抱かせ、許容してしまったことが考えられる。
 この点において、旧時代における日本人の男性は、パンツに対して無頓着だったとは到底いえず、無頓着にさせてしまったのは、フンドシを外し、メリヤス製の猿股を穿き始めた以降、ということがいえるのではないだろうか(日本人男性のパンツの歴史的推移については「赤いパンツの話〈二〉」参照のこと)。

悪夢の白ブリーフ

 ところで昔、母校の中学校の校則では、男女とも下着は「白に限る」というのがあった。暗に男子は、「白のブリーフ」のみが強要されていた。猿股に近い西洋トランクスのたぐいは全てNGだった。

 今考えると、全くどうかしている話なのだけれど、先のフンドシの元服の意とは真逆の話で、まだ子どもであることの象徴として、「白のブリーフ」がその象徴としてあてがわれた時代であり、精神も肉体も、大人として認めなかったわけである。校則が厳しいので、当時子どもたちでトランクスを穿いている子は一人もいなかったと思われる。これは、私が住んでいた片田舎の話である――。

 ただちにこれは、おかしな話として認識できるが、知らず知らず私自身のパンツに対する美意識は、少年時代からすでに喪失してしまっていたのは事実であり、いつでもどこでも「白のブリーフ」を穿いていればいいという感覚に陥っていたことになる。
 客観的にこれは、昭和期のいわゆる「純潔教育」の一環なのかどうか、現時点では私の調べが足りないので結論は差し控える。しかしながら結局、こうしたことが、日本人男性のパンツに対する無頓着さの原初的体験として心理的に刻まれてしまったのではないだろうか。

 よくよく考えて、色のせいにされては困る。
 色としての白が悪いのか。いや、そんなことではない。「白に限る」のが問題だったのだ。白もしくは純白という色のイメージから、確かに「無垢なる清潔感」を連想することはあったとしても、赤だって青だって黒だって、清潔感を保てるのは同じであり、その解釈の出発点が間違っているのである。
 ただし、こういうことはいえる。
 生地の色が白であれば、何かしら汚れが目立ち、子どもの清潔さの基本的なバロメーターにはなる。しかし、穿いている下着が、汚れを計測する道具としてのみ扱われるのなら、穿いている子どもの心はどうであろう。
 もしそうだとすれば、子どものプライバシーを脅かす心的ストレス――自分のパンツが明らかに汚れていることを、他人に察知させるための「計測下着」を穿いているという自覚によって、自己肯定感を損なう心理的影響――となって、それは大人に対する、強いては社会に対する恐怖感が増すだけではないか。

 大人たちは、僕たちが「悪いこと」をするのをずっとずっと監視しているのだ。
 パンツなんて穿きたくない。パンツなんて嫌いだ。
 親が買ってくる「白のブリーフ」に、僕たちは無抵抗だ。何も抗えない。
 僕たちは働いていないから。稼いでいないから。自分で働いたお金で、好きなパンツを買うことができないから。
 ほんとは赤いパンツがほしいのに。あの革命の英雄チェ・ゲバラの赤パンほしいよ。ゲバラパンツ穿きたいよ。タンスにしまってあるのは、白いブリーフだけだ。
 白のブリーフ。白のブリーフ。おあつらえ向きだ。僕たちがそれを望んでいるだって? 冗談じゃない。お父さんの引き出しにも、白のブリーフあるじゃないかって? ふん、どうしてママだけワコールの赤パンなんだ?
  おいおい、その差はなんだ? どうして男たちは、色のついたパンツを穿いちゃいけないんだ? いったい誰がそんなことを決めたんだ? レーニンか? 毛沢東か? そんなわけない。おいおい、ここは日本だぞ。某国の宇宙飛行士さんだって、優雅に柄パン穿いてたぞ。
 おいおい、僕たちに何を縛りつけようとしているんだ?
【裸族信奉の夢は文明の新秩序か? それともいにしえの野生時代への回帰なのか?】

人新世のパンツ論

 少年時代を振り返って思うのは、その大人たちも、パンツについて何ら知識が無かったということだ。「白のブリーフ」に限って着用――という根拠のない馬鹿げた校則がまかり通っていた最大の理由は、下着に対する教養の無さ、すなわち無知である。

 下着の役割とは何なのか。
 保健体育の教科で指導し、小学生または中学生のうちに、自分のパンツは自分で選ぶことを学ばせる。その時の判断材料については、今後、具体的に私論を述べていくが、何より大事なのは、自分で穿くパンツぐらい、自分で選ぼうということである。

 「白のブリーフ」にはなんの罪もない。しかし、ある一定の世代のあいだでは、周知の通り、それも長いあいだ、「白のブリーフ」に対する怨念がつのり、それを馬鹿にした誹謗中傷が耐えなかった。秀才パンツ、東大パンツ、サラリーマンパンツ、父ちゃんパンツといった蔑称があったことも否定し得ない。
 ところが、実をいうと、「白のブリーフ」はめちゃくちゃかっこいいのである。つまり、「望まないパンツを穿かせられる」「“指定のパンツ”を大人から強要される」ことほど、気持ちの悪いことはないのだ。教育者は即刻反省すべきだ。

 パンツは何より穿き心地がいいものを選びたい。それでいて多少、デザインがおしゃれであってくれたほうが、自己肯定感を満たすはず。
 しかし、どんな条件でどんなパンツを選べばいいのか。おしゃれなデザインとはいったい何か。そうしたことを、これまで一度も考えたことがなかったという人が、おそらく多いのではないか。
 次回の「人新世のパンツ論②」では、その具体的な各論に迫りたいが、私論であることは否めず、その点ご留意願いたい。いずれこうした各論と他者の各論の比較検討や折衷案などによって、より確固たるパンツ論が展開されていくのではないかと、私は期待して已まない。

 パンツを穿くということを一つの概念のアドバンテージとして、自己肯定感の内縁に定義し、視野の広い教養を身につけ、これを洗練していくこと。これが私の掲げる、「人新世のパンツ論」である。

 ついでにこれは、究極的な理想論なのだけれど、最大限パンツを理解するためには、自分で生地を選んで買ってきて、自分自身でパンツを縫い上げてみるという高等な趣味に発展させてはどうだろう。男子も趣味は手芸、それも自分のパンツは自分で縫ってこしらえてますって、輝かしくてかっこいいじゃない?
 できないことはない…気がする。

 いずれにせよ、社会人として、ジェントルマンでいたいならば、まずパンツに学べ、ということである。
 男がパンツを買うということ。それは誇らしく、輝かしいことだ。これについては、しっかりと教養を身につけておきたい。
 ああ神よ、われに正しい下着に関する知識を、与え給え。

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