先月初旬、私のお気に入りブロガーであるひろひろさんが執筆した、note.comの「人は必ず変わるけど、変わらないものもあるから、わたしは『デビュー作』が好き。」の中で、映画監督のデビュー作の“魅力”についての話題に喚起し、無遠慮な私はそのコメント欄にて、ジョージ・ルーカス(George Lucas)のデビュー作『THX-1138』についての余話にふれた。ひろひろさんはそれに素晴らしく照応なされたのだけれど、私はさらに性懲りもなく、ルーカスの“スターウォーズ”(シリーズ)の話にまで転じ、ひろひろさんに無益な時間を浪費させてしまった次第である。お詫びしたい。
そこで私が言及したかったのは、『エピソード6/ジェダイの帰還』(Star Wars: Episode VI Return of the Jedi)が公開された1983年の、いわゆるその“劇場初公開版”についてであった。
要するに、今鑑賞することができる『ジェダイの帰還』と、当時、邦題が『ジェダイの復讐』だった時の、私が最初に地元の映画館(古河光映会館)で観たそれとは、いろいろな部分で「違う」のだ。これは、ルーカス・フィルムが新三部作(エピソード1~3のプリクエル・トリロジー)の公開に先駆けて、主体的に旧三部作(エピソード4~6のオリジナル・トリロジー)を改修したからに他ならない。
『エピソード6/ジェダイの帰還』は、1997年の“特別篇”の公開以降、何度かにわたって映像や音声が改修されてきた。繰り返すようだが、初公開の83年以降、“ジェダイの帰還”に邦題が改題される2004年まで、それは『ジェダイの復讐』だった。私が小学5年生の夏休みの時に観たのは、紛れもなく、“劇場初公開版”の『ジェダイの復讐』だったことは述べておく。
ここで思うに、『エピソード5/帝国の逆襲』(Star Wars: Episode V The Empire Strikes Back)の中で、紆余曲折あってハン・ソロ(ハリソン・フォード)が、“カーボン凍結”されてガチガチな、まるで柿渋色の固形石鹸のようにされてしまったエピソードに端を発し、それが悪辣かつ卑劣な“ヌメヌメ野郎”――ジャバ・ザ・ハット――の宮殿で、すっかりオブジェ化されてしまっていた経緯のシーンから想起して、あのジャバ様が、いかように“特別篇”以降、小綺麗に修整されたのか――。
これは結局、私自身の大きな誤解(※ジャバ様自体は実際、おそらくほとんど修整されていない)で終止するのだけれど、ともかく、ひろひろさんとのやりとりがきっかけで、その“劇場初公開版”における、反高潔で哀れなジャバ様が無性に観たくなった――というわけなのである。なんという不純な動機であろうか。
初公開時のそれらしきビデオテープ入手
すっかり興奮し、慌てた私は、早急に“劇場初公開版”を見つけ出すべく、中古のビデオテープ業者から、『ジェダイの復讐』を探し求めた。
実はこの時、2006年に発売された『ジェダイの帰還』のDVD(リミテッド・エディション)のボーナス・ディスクに、“劇場初公開版”が収録されていることを、私は「知らなかった」のだった。
しかもこのDVD、比較的今も入手しやすい…。
そんな近道を知らずして、私はオリジナルを観たい一心で、わざわざ難儀な道のりの、中古ビデオテープを探し回ったわけである。この手の「無駄な努力」は、決して褒めるにいたらぬ、無知蒙昧の沙汰にすぎない。
が、このように解釈して、念じておきたいのである。
私のような、救いようのない映画狂への「おおらかな」気持ちは、どうか幾分、心の片隅にぽつりと残しておいていただきたい。かろうじてこのビデオテープに大金をはたいてしまった――わけではないにせよ、「可愛らしい火遊びだ」とゆるいまなざしをもっていただきたい。どうかどうか…。
そんな都合のいい、念じておきたい話はともかくとして、『ジェダイの復讐』ビデオテープの入手は、かなり困難を極めたことだけは確かであり、かろうじて、徒労に終わらずに済んだ次第である。
そうしてルーカス氏がダメよ、ダメだったら、ダメっていってるじゃないと腰をくねらせて嫌がるであろう、その観てほしくない“劇場初公開版”の「それ」を、私はじっくりと念じて観ることができたのだった。
すっかりアナログテープ由来の劣化が進行してノイズが酷く、しかも「それ」はシネスコサイズではなく、スタンダードサイズにスクイーズされた、古ぼけた感じの「それ」であった。
なんということであろう。少年時代に映画館でコロッケパンを食べながら観た「それ」とは、比べ物にならないくらいに貧相な、別物のすたー・うぉーずといっていい代物であった。そう、すたー・うぉーずである。いうなればこれは、野卑な「それ」に違いないのだった。
スペースオペラという少年の夢
しかしながら、まてよ。
ビデオテープの物理的な劣化による映像の粗悪さをいったん外して考えて、客観的に、厳密な意味で、“特別篇”以降の『ジェダイの帰還』と、いま観た“劇場初公開版”のすたー・うぉーずとを比較した時に、果たしてどうだったか。おいおい、驚くべき違いは、ほとんど何も無いじゃないか!
何も無いだって?
そんなわけはないだろう。確かに、確かにだ。ところどころ、“劇場初公開版”において画面上の殺風景だった箇所に、ルーカスさんが好きそうな、“得体のしれない異星人”が付け加えられていたり――それは例えば、カークーンの砂漠のサルラックの大穴に、オリジナルには無かったサルラックそのものがCGで加えられていたり――とか、あるシーンにおいて音楽が全面的に差し替えられていたりはしたものの、全体としての印象は、“特別篇”以降と比べてすたー・うぉーずは劇的に「違う」というほどでもなく、むしろかなり地味に、凡庸に、過度なスター・ウォーズ・ファンでなければ判別できないくらいの「軽い加工修整を施したに過ぎない」――といいきってしまったほうが、無難かと思われる。
もっとざっくり私個人の感想を述べさせていただくならば、“特別篇”以降の修整が「オリジナルを損ねている」とか、「台無しにしてしまっている」といったふうのショックは全く無くて、むしろ“特別篇”以降の方がじゅうぶんにエピソード6の真価を完璧に表現していていいんじゃないの――と思うほどであった。
ただしこれは、ルーカス氏が長い年月において夢心地に創造しまくった、とてつもなく広大な“スター・ウォーズ”構想のスペースオペラに限った話である。
原則論としては、映画は、「映画作品のオリジナルの改変を、容認し得ないものだ」という考え方がある。私も、それを遵守すべきだろうとは思う。つまり、ルーカスさんに限った、あの人の熱意に負けてもうしゃーない、ま、いっか的な…。つまり例外、特例なのである。
こんなことをいってはなんなのだが、そもそもスペースオペラという概念あるいは価値観が、いわゆる“パルプ小説”的な、旧時代の男性特有の発想であることを、“スター・ウォーズ”構想は物語っている。
極端な話、スペースオペラとはこういうこと。
半裸もしくは水着姿の“美人女性”が、グロテスクな異星人に襲われて「キャー」と悲鳴を上げ、それを武器を持った男どもが退治して救うというラブストーリー。
ルーカス氏の若気の至り――といってしまえばそれまでの話なのだけれど、彼は実に意欲的だった。デビュー作『THX-1138』(1971年)の原形となる短篇作『電子的迷宮/THX 1138 4EB』(1967年)がまさにそうである。
私も幼少の頃、憶えがある。自宅の二槽式洗濯機を、宇宙船の操縦桿になぞらえて、えいや! とばかりにタイマーを回し、宇宙船を操縦した気分を味わったものだ。洗濯物が渦を巻いて回転する。それをずっと眺めているうちに、宇宙空間をトリップした感覚になり、スペーシーな夢心地となった…。
ルーカス氏が若くして夢を描いた構想が、実に純粋無垢でサイエンス・テクノロジー的な、紛れもないスペースオペラだった、ということを意味している。ちなみにその純粋無垢な青年像は、彼の出世作『アメリカン・グラフィティ』(1973年)によく表れている。
歳を取るにつれ、夢への凡退感がともない、とっくの昔に消化して退きつつも、やはりガウディのサグラダ・ファミリア(Sagrada Família)を思わせる深遠なものへの憧憬と、それと逆行する現実的な忍耐力と、依然として残る少年時代のほのぼのとしたロマンティシズムの要請とを複合させ、エンターテイメントのビジネス上の制約もしくは経済的な事情を鑑みて、自身の生き永らえる最善策としての“スター・ウォーズ”構想に人生を全うした形をとり、それに身を委ねていく。
既にそれは、自分の身の上のことではなくなっていると承知しつつも、〈どうです? あなたはまだ、二槽式洗濯機で宇宙船ごっこできますか?〉という自身への問いかけに、応じ続けている――ということなのだと思う。
『ジェダイの復讐』の大いなる記録とおばちゃま
話を『ジェダイの復讐』に戻したい。
当時の映画雑誌を見ると、大ヒット中の“スター・ウォーズ”人気にあやかり、その特集で躍起になっていたことがよくわかる。集英社の月刊誌『ロードショー』(1983年9月号)の小さな記事(「ワールド・スター・フラッシュ」)をつまみとって要約してみる。
『ジェダイの復讐』フィーバー。
『ジェダイの復讐』は予想通り大ヒット。いくつもの記録を塗り替えた。例えば――。
- 一般公開1日目(のべ1002回上映)にして、621万9629ドルという史上最高収入。
- 公開1週間を待たずして、4110万ドル。『E.T.』の1週間の興行収入2500万ドルを軽く超えた。
- 19日後の総収入は、なんと9300万ドル。
- 関連本も記録的な売れ行き。『ジェダイの復讐』のシナリオを児童向けに脚色したハードカバー本は、半月で40万部。
- ペーパーバック版は250万部。前作や前々作もその煽りで売れ行きを伸ばしている――。
この号の映画評論家・小森和子さんの連載紙面「おばちゃまの試写室トーク」が面白い。
この年日本では、7月初めから『ジェダイの復讐』と『007/オクトパシー』が鉢合わせし、『スーパーマンⅢ電子の要塞』もちょい遅れで公開した、とおばちゃまは冒頭で説く。さらにこんなことを述べている。
映評家という職業柄からは、映画に個人的好ききらいをしちゃいけないのかも、だけど、あえていわせてもらえば、こうしたSFものの一種、つまり未来を想像して描くものには、映画ならではの夢があるし、それはそれでオモロイんだけど、もはやそんな遠い未来まではとうてい生きられんおばちゃまとしましては、より現実、真実に近いもののほうが、より実感も見ごたえもあり、より好きなのだナ。
集英社『ロードショー』1983年9月号「おばちゃまの試写室トーク」より引用
それにSFの宇宙時代になっても“ウォーズ、ウォーズ”で戦争ばかりしてるのは、映画で見てるぶんにはオモロイけど、考えると悲しいナ!
端的におばちゃまは、所詮男の描く夢なんて、こんなものばかりなのヨ、ということがいいたかったのだろう。『ジェダイの復讐』に関しては、こんなことを述べている。
『ET』の亜流もしくは『ET』からヒントを得て、逆にキミワルク、コワク作ったと思われるエイリアンがいろいろあるのはシャク! そのシャクな中でも、これはケッサクとウナルほどだったのは“ジャバ・ザ・ハット”冷酷で好色な暗黒街の独裁者だ。だから捕獲したレーア姫を舌なめずりするようにギョロ目で見るのが、ゾックゾクッ! またこの時のレーア姫がとびきりカワユーイのだナ!
集英社『ロードショー』1983年9月号「おばちゃまの試写室トーク」より引用
本当にこれ、おばちゃまこと小森和子さんがしゃべった内容なのかどうか、今となっては疑わしい部分もあるのだけれど、確かにおばちゃまの目の付け所は、さすがである。
男どもはみな、騎士がどうしたとかフォースがどうだとか、父親が誰だとか、帝国だとか反乱だとかに夢中になって囚われるけれど、世の真実は全く別のところではないか。
あのジャバ様に捕らえられた美しき女を見よ――。なんとえげつなく、悲運なことか。
それにしても、鎖の首輪で身動きの取れない不自由なレイア姫(キャリー・フィッシャー)は実に可愛かった。ダメダメな男ハン・ソロを命がけで救出した美しき女の心は、決して容易に言葉にできるものではなかった。意中の人がダメダメな男であっても、心はメロメロなのだ。身分の違いは関係ない。
ただそれだけである。
そう、ただそれだけ。宇宙の果てにおいても、ただそれだけのことだ。自分の首を締め付けているのは、この世の男ども――ではなく、卑劣な“ヌメヌメ野郎”ジャバ・ザ・ハットであったわけだが…。
由々しきジャバ様のこと
ディアゴスティーニの週刊冊子『スター・ウォーズ―ファクト・ファイル―』から、(公認の)ジャバ様の経歴をひもといて、この話を終わりたい。
ジャバ・ザ・ハット(Jabba The Hutt)。暗黒街の顔役。
本名は、ジャバ・デシリジク・ティウレ。
好きなものは、ヒューマノイドの女と水キセル。
素性としては、暴飲暴食、冷酷非情、狡猾さに長けているといったところ。
長い刑期を務めた父ゾルバは、ジャバをよく「教育」したという。ただしここでいう「教育」とは、真っ当なそれではない。しかるに、ギャンブル、奴隷売買、密輸業、恐喝、贈賄、ごまかし、脅迫のこと。
偉大な叔父?(伯父?)のジリアクとともに、ナル・ハッタの衛星ナー・シャッダの冬宮殿を本拠に、デシリジク一族を支配した。
二人は違法な貿易をして大儲けしていた。ハン・ソロとチューバッカに出会ったのは、その頃のことだ。豪華ヨット(スター・ジュエル)に乗っていて、海賊に襲われていたところをソロに助けられた。
ジャバは元帝国宙軍中尉であるソロから、ナル・ハッタが帝国の支配下に入ることを聞いて知り、ナー・シャッダが攻撃されると、ソロを保安部隊に潜入させ、敵の将校を買収することに成功。ナル・ハッタはかくも救われた。
さらにジャバは、ライバルのベサディー一族の長老アラクが、自分を狙った海賊の黒幕なのではないかと疑い、アラク暗殺を企てた。アラクの手下テロエンザを買収し、アラクに毒入りフロッグ(ナラ=ツリー・フロッグ)を食べさせ、それが中毒となって、アラクは死んだ。
しかし、アラクの息子ダーガは、ジリアクが繁殖期で雌(!!!???)となって出産したばかりの頃、デシリジクの本拠地に乗り込み、ジリアクと死闘を繰り広げ、ジリアクを殺して勝者となった。
こうしてジャバは、ジリアクの死後、赤ん坊だったジリアクの子(!!!)を殺害し、ジリアクの遺産の独り占めに成功した。
父ゾルバからタトゥイーンにある宮殿を引き継いだジャバは、タトゥイーンの悪の勢力争いに奔走。彼は女ハットのガーデュラと取引をし、彼女をまんまと騙してみせた。そしてガーデュラの私有物を剥奪することに成功。彼は銀河有数の犯罪王となった。
その後ジャバは、父から受け継いだボマー僧の大僧院を贅沢三昧に改装。謁見室などをこしらえた。この大僧院には謁見室のほかに、客をもてなす部屋や使用人の部屋、敵を監禁する場、檻などが設けられた。ジャバの宮殿にはスパイも多かった――。
§
以上のジャバ様の経歴をふまえて、『ジェダイの復讐』改め『ジェダイの帰還』を観れば、ルークたちがジャバの宮殿に集結し、大いに苦難に遭いながらも、あれやこれやの大展開を見せ、ジャバの時代が終わっていく様を面白く知ることができるであろう。
事実、大概私は、このデューン・シーのシーンを観て、涙し、すっかり気が済んでディスクを止めるのである。その先は、観ない。
もうええやん。
その先のエンドアの、愉快なシーンの数々は???
もういいのですよ、その先のエピソードなんてものは。それくらいに、ジャバ様が好きなのであった。
人生に一度くらい、首輪をされ、ジャバ様に「ワッハッハッハ」と腰が抜けるほど笑われてみたい、と思っている。いや、叶わぬ銀河の夢である。《遠い昔、遥か彼方の銀河系で》…。
哀れなジャバ・ザ・ハットよ、永遠に――。
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