人新世のパンツ論⑫―ゆとれぬパンツの危険な冒険

 高校野球の開会式をテレビで観ながら、「ミミズにおしっこをかけるとおちんちんがはれる」について考えていた。子どもの頃にそんな言い伝えを聞いたことがあった。

ミミズにおしっこはかけるな

 カエルにおしっこ――というのは正直やったことがあるのかもしれない。おぼろげな記憶が明滅する。しかし、ミミズにはやろうとは思わなかったのではないか。ミミズなんて弱そうな生き物に何らかの危害を加えるということが、楽しいとは思えなくなったある種の道徳観が芽生えていたからだろう。いずれにしても、カエルにおしっこをしてはれたことはなかったし、ミミズにおしっこをして「はれちまった!」と騒ぐ友達も聞いたことがなかった。
 一部のミミズは外敵から身を守るため(?)に毒のある体液を放出するらしく、それのせいではないかという説もあれば、そもそも子どもは土いじりや虫いじりで手が汚れたりして、菌が手に付着し、そのまま自分の性器をいじった場合に菌が入って炎症を起こし、亀頭包皮炎や尿道炎になったりすることがある、これをつまり「ミミズにおしっこをかけるとおちんちんがはれる」と単簡に、子どもたちに注意する意味で言い伝えたのではないかとする説もあって、なかなか理にかなっていてなるほどと思ってしまう。
 「ミミズにおしっこ――」に関して、ウェブでは論文めいたものもあった。この言い伝えを人々の「禁忌」に類する神話や慣習、民間伝承としてとらえ、レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)の人類学の構造主義とからめていたりして、まことに物々しい解釈なのだけれど、そういうのを読んだりすると、「ミミズにおしっこ――」もただごとではない気がする。

 ただ、これに関して私自身の疑問及び解釈は、〈あるいはこれが別の戒めに通底するのか〉というところにあって、2つの仮説を考えたわけである。
 一つは、「はれる」は実は「腫れる」ではなく、「勃起」を意味しているのではないかということ。もう一つは、普段関わりのないものに遊び半分で戯れると、「えらい目に遭う」、すなわち「性病にかかる」という戒めではないかと思ったのだ。
 しかしながら、やはり単簡に、子どもが外で遊んで汚い手で性器をいじると「えらい目に遭う」というのは、「自分の性器を清潔にして大事にせよ」という程度の戒めにしか思えないわけで、要するにそういうことだと私は解釈したい。

 つまるところその日――高校野球の開会式をテレビで観ていた日――に、某有名タレントが諸々のメディアの仕事を一切合切降板して謹慎する、とのニュースが流れ、私はこう思った。
〈このタレントも、おちんちんがはれたのだ〉
 いやいや、失礼千万にも程がある。実際はどうも、不倫めいた行動癖が理由らしいのだが、そっちのほうがたちが悪そうである。男の不逞という点においては、おちんちんがはれる…まあ、似たようなものか。

パンツが安心安全ではないということ

 「人新世のパンツ論」を展開していく。
 前回は、トランクスとカルトな海水パンツについて書いた。私自身は、約30年間身をおいたトランクス派から、つい数年前にボクブリを含めたブリーフ派に転向した。なぜか? それは、もっと下着でおしゃれがしたかったからだ。
 そうしたことからすると、この「人新世のパンツ論」が、一部の高等遊民のみ楽しめるエンタメであってはならないと危惧する。広く誰でも、自分のパンツ(下着)でおしゃれをする楽しみが増えることを、私は期待して已まない。

 だからこそあえていうが、パンツが性器を保護しつつ、隠す役割を担っていることを忘れてはいけない。
 前回、安心安全なトランクス――などと強調したりしたが、肝心なことは、パンツの中の男性部をいかに保護し隠すかだ。穿いている主(あるじ)がそのことを忘れようがなんだろうが、下着であるパンツは普段、中をちゃんと守ってくれている。これこそが、安心安全の定理だ。
 だから勝手に、カエルやミミズにおしっこをかけるな! ということを肝に銘じたい。安心安全の男性部という規律と、パンツのおしゃれとの兼ね合いを、どうもっていくか。それを、考えていかねばならない。
 そのためには、今回あえて実験をしてみる必要があった。

ゆとれぬパンツの危険な発展

 過去に私は、昭和のフクスケを穿き、平成の長崎屋グンゼのパンツも穿いた。はっきりいって、その姿がかっこいいとか、カッコ悪いとかを“前貼り”無しで堂々とさらしてきた。しかしここで、おもいきった冒険をしてみなければならなくなった。いわば究極的な命題への通過儀礼でもあった。

 パンツにおける究極的な命題とは、守るべきものは守るという大前提で、いかに小さくコンパクトなアイテムとなりうるかだ。
 旧時代のつなぎの肌着(ユニオンスーツなど)や襦袢は、肌を露出する部分が大幅に失われるため、「貞操」における最たるアイテムであった。それゆえに、脱ぎづらく、脱がされづらくもあるので、悩ましい。
 人々の織りなす文化は多面的である。産業革命以降、より簡便で動きやすい機能的な肌着が求められた。完全なる「貞操」よりも、もう少しゆるやかに、愛する人と戯れてみたい…。そうした人々の願望がやがて具現化した。肌着は各部位に分化し、細小化していく。ショーツ化である。そうしたアイテムがいっそう好まれ、より小さく小さく、の競争が加速していった。当然、肌の露出する度合いは襦袢などの比ではない。

 こと男性が身につける肌着においても、動きやすい軽量な下着、すなわちブリーフが開発され、これがまた時代とともに多様な形状に発展していった。ビキニからスーパービキニへ。それも一つの革新であった。

 男性部を保護し隠すという下着としての機能。それと、おしゃれの観点。
 このことから、私が知りたかった最大の謎は、いったいパンツは、其の一「どこまで小さくできるか」。其の二「常態的にどこまで見えてよく、どこまで隠すべきなのか」――。
 レヴィ=ストロースではないが、パンツというものの構造において、かつて未開人と蔑まれたアフリカや南米の部族が身につけていたような、男性の下腹部にまとう切れ端、又はペニスケース(例えばコテカ)のようなものと、結局は類似していく、あるいは同じ構造になっていくのではないか、ということに、私は気づいたのである。
 文化の多面的な欲望が、結局そこに行き着くのだとすれば、人類学的にレヴィ=ストロースの論は正しかったといえる。むろん彼は、西洋文明圏外の人々の、逆説的発展系の文明論を説いていたのであって、パンツとおしゃれとの関係を究極的に求めていくとなれば、結局、同じことがあぶり出される、というわけである。

2024年パンツ最小化の旅

 2024年の旅愁。
 思いがけずこれは、“ハックルベリー・フィンの冒険”(Adventures of Huckleberry Finn)であるかもしれないと思った。
 そもそもマーク・トウェイン(Mark Twain)が書いたあの冒険譚は、発表当時、「下品」で「粗野」だと罵倒された。であるなら、私が試みるここでの冒険も、最終的には下品だ、下劣だ、粗野だ、粗暴だ、汚い、などと罵倒される――かもしれないことを、覚悟しておかなければならない。

 其の一「どこまで小さくできるか」。
 男性用パンツとして売られている製品の中で、最も小さくコンパクトなパンツを探してみたのである。ちなみに、ここでいう最小のパンツとは、SサイズMサイズLサイズ云々ではない。男性部を保護し隠しうることのできる、最も小さな布切れの限界面積(容積)のパンツ、という意味である。私はこれを、「限界パンツ」と称したい。
 ともかく今般、そういうパンツを探してみたのである。
 見た目では〈これ小さいよな〉と思うものでも、いざ穿いてみると、案外ふっくらしていて〈最小とはいえないな〉と思うものが多くあった。そんな中で、まさにこれこそ「限界パンツ」ではないか! と思うものを私は発見してしまった。

 いかがだろう。
 溜息をつかないでいただきたい。これを実際に穿いた時の感覚というのは、脚を跨いで穿くなんていうよりも、布切れを当てる=パッチを付けるといった感じで、後部はT字の紐状の縫い合わせラインのみ。前部はまさに、少し大きめのブナの葉くらいの布切れを当てているだけであり、男性部を隠すのにはギリギリのパンツなのであった。
 穿き心地は悪くない。
 密着した部分が殆ど無いので、パンツを穿いているという感覚は、無い――。しかもエアコンの風がよく当たる。虫に刺されやすい。たぶん、視線も含めあらゆる外因の攻撃は免れないが、とりあえず着衣してます。パンツ穿いてます。最低限、男性部は保護している。隠している。万事オーケー。ただし、後部の臀部は、丸出しもいいところである。

恐るべきシースルーの魔術

 其の二「常態的にどこまで見えてよく、どこまで隠すべきなのか」。
 これは下着に限ったことではなく、どんな衣服でも生地の状態において「透けて見える・見えない」といった、いわゆる透け感の問題が生じてくる。衣服はそういうものであり、透け感は、直視した時の透過率を感覚的にあらわしたものである。

 ここでは、男性下着に限定して述べる。パンツにはシースルーと称する商品がある。透けて見えるタイプのパンツだ。
 かつてシースルーというとこれは、セクシーな女性下着の代名詞であったと思われるが、おそらく80年代以降、徐々に男性下着にも浸透してきて、今や男性用シースルータイプの下着の総数はおびただしいものに発展している。これ以外に、シースルーとされていない商品であっても、実際的に穿いてみるとわずかに透けて見えてしまうパンツが、おそらくあるかもしれない。
 パンツのシースルーは、メッシュ生地などによってラグジュアリー化したものを含め、本来隠しておくべき男性部の一部もしくは全部をあえて見せるように細工した、セクシュアルな遊び心の詰まった“大人向け”の商品である。
 いわずもがな、子どもは絶対に手出ししてはならないパンツだ。

 さて、実際に様々なシースルータイプのパンツを試着してみると、単純に「透けて見える」だけではないことがわかった。
 パンツ自体の構造、メッシュ生地の巧みな縫製の仕方、色やデザインなどによって千差万別の透け感がある。私はシースルータイプのパンツの透け感を、以下の4つに定義(分類)してみた。

①透けていそうで透けていない
②透けていそうで透けている
③透けていなそうで透けている
④透けていないのに透けているよう
見える

 概ね4つのうち、どれが一般的な「セクシーパンツ」に類するかというと、それは①と④だろう。①のように、透けていそうだと思わせながら、実際は透けていないパンツというのは、良俗的・良心的な観点で広く許容されるシースルーではないだろうか。
 ④は厳密にいうとシースルーではない。透けているように見えるだけで、実際は透けていない。そのようなパンツはけっこうゴロゴロ存在する。メーカーもあえてそれを露骨に喧伝したりしていない場合がほとんどなので、興味のある方は自分で探してみてほしい。

 大人の究極的な遊び心という点でいうと、③の「透けていなそうで透けている」というのは、きわめてスリリングな心理ゲームが楽しめる(上の画像の2カット目)。穿いている本人が、それを自覚している場合は遊び心になるが、稀にそれを知らずして穿いている場合は、危険。既に見えてしまっているのだから。シチュエーションによっては、とんだトラブルを招きかねないので注意が必要である。私の高校時代の「トレパン事件」はこれに近いトラブルだ。
 ②の「透けていそうで透けている」(上の画像の3カット目)は、もはや遊び心を飛び越えて、迫りくる性の快楽に一歩も二歩も足を踏み入れていることを自覚すべきパンツだ。シースルーでいうと、これが最右翼的な純度の高い透け感であり、全裸体をほぼ露わにした景観となる。しかしそれはかろうじて全裸ではなく、あくまで一応身にまとっているという点で、「奇妙な風物の全裸体」という表現はできるかもしれない。

安全神話をくつがえすパンツたち

 男性下着のトランクスのように、それが安心安全なパンツだということを完全に理解するには、このような試着の冒険をして危険なパンツたちと向き合い、それを直視し、見えるということがいかなるものなのかを理解する必要があった。
 ただし私は、下腹部を恥部といったり、「恥部をさらけ出すシースルーのパンツ」――といったような表現は、つねづね避けたいと考える。そもそも男性部を恥部と称するのは、蔑称を意味するのであり、「人新世のパンツ論」の先鋭性からは逆行する。恥部といういい方は、あくまで謙遜語として受け止めておきたいものだ。

 学生時代は、羞恥心ゆえにパンツの安全神話を懸命に堅持した。そうして本来下着は、身体部をあらゆる意味で保護するためのものであるが、構造を過度に小さくしていけば、保護の度合いは希釈され、また生地をメッシュにしてしまえば当然透けて見える、というものをあえて選択し着衣する理由は、ごくごく限られた理由――すなわち性的な欲求以外に、考えるべきものはない。

 視覚的かつ心理的に、あざといパンツではなかろうか――と性の欲望をかき乱したのが、ヴィスコンティ監督の1971年の映画『ヴェニスに死す』(“Der Tod in Venedig”)ではないか。
 ポーランド貴族の美少年タッジオを演じたビョルン・アンドレセン(Björn Andrésen)は劇中、海岸でつなぎ型の水着を着てそこらじゅう戯れる。それは古い時代の水着であって、常識的にはセクシーな水着とは思われないはずなのだが、彼が着た状態においては、なんと股間がふっくらしているのである。「透けていないのに透けているように見える」――。この映画については、いずれ別稿に委ねることにしよう。

女の子だってミミズにおしっこをする?

 最後に、性的な欲求という観点で、先述した「ミミズにおしっこ――」の話に戻る。
 ミミズにおしっこをしてみたくなるその冒険心は、男の子だけが掻き立てられるものと考えてしまうのは、やや先入観を持ちすぎてはいないだろうか。
 女の子だって、ミミズやカエルにおしっこをしてみたい――?
 その場合、しゃがんでするのか、立ってするのかはどうでもいい。問題は、どこがはれるのかだが、それもこの際どうでもいいだろう。
 もしミミズやカエルにおしっこをかけて、大事なところがはれるかもしれない、とわかっていても、つい実践してしまいそうなのは、やはり性的な欲求があるからではないか。そうした欲求に男女の差はないと思う。この場合、多少の危険を犯しても――という観念が付随する。

 下着に対しても同じである。
 性的な欲求のゆらぎを、代償的に満たす装置として、それは有効である。たとえ過度に小さくし、己の保護を免れるにしても。たとえ透けて見えるパンツを穿いて、性的なアピールが思いがけず飛び火することになったとしても――。
 パンツというのは安心安全なベクトルと、もう一つはそれに逆行するベクトル、つまり身体部を隠さず見せる効用としての、抜群の性的冒険紀行の可能性を秘めているのであった。
 後者の場合、プライベートで戯れるお互いの同意(大人どうしの了解)=「パンツの認知と許容」というミニマムな世界から、社会における時代の変化の、「パンツの認知と許容」の多様性も広がっていくことに気づくべきだ。男性がシースルーのパンツを穿くなんて言語道断――という時代から、既に現代はそれを認知し、許容している。
 しかるに己とパンツの交渉は、基本的に自由であり、社会がそれをどう認知し許容するかというだけのことであって、この点においてパンツには古いも新しいもないということなのだ。パンツを穿く選択肢から、新しい未来の人間像が浮かび上がってくるといえないだろうか。

 次回はステテコと腰パンのおしゃれについて語りたい。

「限界パンツ」についての後日談…

 これ以下、予定外の追記である。

 上述の項「2024年パンツ最小化の旅」では、これ以上ありえないと思える最小のパンツ=「限界パンツ」を穿いてみた。あそこで紹介したピンク色のパンツは、確かにあれ以上小さいと、ナニがはみ出してしまう限界ギリギリのパンツであった。
 ところがブログをアップした直後、もっと小さいパンツが存在するのでは??――との未確認情報を得て、自分で商品画像をチェックしたところ、
 うん?? ちょっと、微妙に、もしかしてあれより小さいかも???――と衝撃が走った。

 はて…困ったことになった。最小の「限界パンツ」はいったいどちらなのだろうか?

 ともかくそのパンツを入手しなければ、ということになり、早速その商品を注文した。届くのに、少々日数を要した。
 それがいま手元にある。穿いてみる以外に方法はない。その結果が、以下の画像である。

 結果、きわめて微妙なことになった。パンツ自体はほとんど同じ形状である。しかし、こちらの白いパンツはシースルーで、フロント部分が下向きになっている。下向きになっている分、やや大ぶりに見えるかもしれないが、細長いため、甲乙つけがたい。

 斜めの角度から見ると、ほとんどもうそれは、透けて見えて…はいない! といい張りたい。見た目の収まり感でいうと、あのピンク色の「限界パンツ」の方がコンパクトだ。こちらの白いパンツは、男性部が堂々と垂れ下がっている分、見た目の衝撃度は限界を超えているようにも思われ、はっきりいってヤバい。パンツとは、これほど恐ろしいものなのか。

 ということで、比較した結果、どちらが小さいパンツかというと、私はあのピンク色のパンツの方に軍配を上げたいところだが、違う意味でこちらの白いパンツも「限界パンツ」のようである。あとの議論はみなさまにおまかせしたい。

 次回はもっと平易なテーマ。ステテコと腰パンのおしゃれについて語りたい。

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