人新世のパンツ論⑭―最終回・愛しきフンドシは二度ベルを鳴らす

 日本人の働き盛りの男性を相手に、フンドシや包茎の話題を持ち出すのはタブーである。とくに女性が若い男性に対して、それらの話を持ち出すならば、たいていの場合怪訝な顔をされて内心嫌われる。どういうことか。つまり、男性にとってそれはエロの話ではなく、身につまされた「男の恥部」の話だからである。

 トクシック・マスキュリニティ(Toxic Masculinity)という言葉がある。有害な男らしさ、有害な男性性の意だそうだ。しかしそのままだと誤解されるので、「自他を害する過剰な男らしさへの執着」と理解すべき――という話を、ごく最近、日本性教育協会の「現代性教育研究ジャーナル」(No.161)で読んだ。
 フンドシは日本人の男らしさ(=日本男児)をイメージさせてきた。包茎は逆にその男らしさを阻害するものとして忌避され、トクシック・マスキュリニティのシンボリックな危険信号として反応してしまうから、男性はその手の話題を嫌う。

 これまでパンツ(男性下着)の話を展開してきた以上、そのパンツの社会学としてみた時に、日本人が好んでいた、しかも今となっては忌避されてしまう“奇妙な下着”としてのフンドシの話は避けられない。フンドシについての大まかなことは、「人新世のパンツ論①―プロローグ」で述べているが、最終回となる今回は、そのフンドシについてもう少し知見を広げてみたい。

フンドシは勇ましく働く男の象徴だった

 フンドシ(褌)は、腰を覆う帯状の布片の下着である。股間から腰部に布片を巻きつけて着衣する。今ではほとんど普段穿きする人はいないと思われる。大相撲の力士が腰に締めているのは「廻し」(まわし)というが、遡れば同じフンドシ(=腰巻)である。
 古代より、五穀豊穣と武運長久の祭事や神事だった相撲の武芸は、広義でいうと、はだか祭りの一種ととらえていいだろう。それが近世・江戸期に花開いて大衆の見世物となり、腰巻も様式美を重んじて華やかに装飾され、多種の色彩を帯びる「廻し」の型となった。
 日本人がフンドシ(=腰巻)を執拗に愛玩するようになった理由は、一部、相撲の影響とみてもいいのではないか。古来、単なる腰巻として身につけていたにすぎなかったフンドシが、大衆武芸の相撲を通じ、ステータスシンボルとなって定着し、公衆のフェイバリット下着となった――。フンドシは下着(=肌着)でありつつ、仕事の作業着としても軽量で下半身の運動にも憚らず、合理的なものであった。これがのちの富国強兵の時代に、軍服着装の下着として公認されたのも頷ける。

福富織部の『褌』本

 既におなじみとなったパンツの博学者(?)こと米原万里氏も、著書『パンツの面目ふんどしの沽券』(ちくま文庫)の中で、確固たる「日本民族の精神的支柱」というメルクマールを掲げ、フンドシについて存分に語り尽くしている。
 その要諦は、こう。かつての日本人の男性は「フンドシを締める」ことで、自己の男らしさ(=日本男児たる威厳)を再認識するとともに再規格化し、フンドシ愛好を遵守して「らしさの具現」の象徴としてきた――。そこで米原氏が、フンドシ愛好の辣腕の書として知らしめているのが、昭和2年に出版された松木實編の『褌』(成光館)であった。
 著者は、福富織部という人。ただし、どうも松木本人が福富織部らしいのだ。米原氏も述べているが、福富織部なる人がどんな人物だったかよくわからないのである。ちなみに福富氏は、『褌』の著書以前に、『屁』(おなら)という本を書いて出版しており、いわゆる“屁芸”が得意だった人のようだ。

 屁芸よりも、フンドシが大事ではないか。
 『褌』の本について、米原氏曰く、《民俗学、人類学的考察らしきものから、万葉集の抜粋、江戸時代の小咄、川柳、昭和初期当時の新聞記事に至るまでフンドシにまつわる集められる限りの話を、まさに玉石混淆に何の脈略もなく出典も曖昧なまま羅列している》と批評していて、なかなか辛辣だ。
 今でいえば、河出書房さんの編集者が好きそうな、ラディカルな本といったところであろうか。今、新しくタイトルを付けるならば、『趣味のふんどし学入門』で片付くかどうか。

 気がつけば、私自身も米原氏にならい、興味本位でこの本を入手してしまっていた。
 目を通してみると、やはり玉石混淆のフンドシ語録大全といった感じで、なにゆえにこの本が昭和2年に出版されたのか、その経緯がよく読み取れない。内容の一部をここで紹介しておこうと思うが、どこを抜粋していいか甚だ迷った。福富氏が記した、作者不明(?)の川柳をいくつか挙げてみることにする。

 ふんどしをするが湯治のいとま迄
 ふんどしのほころび迄もお針なり
 袴ごし前からあてる見ぐるしさ
 手拭をふんどしにしてつめをとり
 ふんどしをしながらのぞく雪の朝
 褌へ裏をつけてる気象台
 褌をすられた様な警視庁
 女房が猿股をはく面白さ
 大げんくわふんどししたは湯番なり
 ふんどしをかりて一番けちをつ
 ふんどしを故郷へかざる角力なり開

 まさにフンドシ川柳である。
 はっきりいって、福富氏が作者であろうことは推測できる。ふーむと唸るものがあるかというと、それはなし。勇壮かつ風光明媚なものを感じるかというと、それもほとんどない。「ふんどしをしながらのぞく雪の朝」はなんとなく、その光景なり心情なりを浮かべることができて、なるほどなと想うところはあるが、凡人の私の頭では、このフンドシ川柳の湯たんぽのような温かさの意趣についていけないのであった。

 もう一つ、面白かったのは、水戸藩の武士・藤田東湖と薩摩藩士・有村俊斎の賭博のやりとりを記した「俺の睾丸は武士道を心得てゐる」。
 羽織袴を賭けて賭博に大負けした東湖がフンドシ一丁姿となった。ところが、そのフンドシが緩んでいて睾丸が見えてしまっているのだ。東湖は隠そうとしない。そこで俊斎が注意し、苦言を呈すると、東湖は激怒した。
「俺の睾丸は武士道を心得て居るぞ。負ければ裸にされると承知で剥がれたのだから遺憾はない。賭博は正々堂々の陣じゃ」

 どうやらこのエピソードは、杉原三省の『藤田東湖言行録』に由来するものと思われるが、文脈がかなり異なっていて、笑ってしまうほど逆に面白い。

精神的支柱としてのフンドシスタイル

 そんな福富氏のフンドシ愛好の熱い眼差しとは裏腹に、米原氏のフンドシ考はきわめて冷徹である。

 近代日本は、1927年の金融恐慌でどん底に陥り、そのうちすぐに満州事変が勃発する。緊迫感を強める中露米に対し、断崖絶壁の綱渡りをしなければならなかった。国民の高揚感を追い風に、軍の政治主導が目立つ頃になると、植民地を支配する欧米列強に対し、日本は強固な国体と国民の威信を示さなければならなくなった。

 国民(日本民族)が一心とならなければならない難局――。

 そこで、《民族精神の支柱としてのフンドシが登場する。フンドシを拠り所にすることによって、ようやく日本という共同体の一員としての揺るぎない自己を確認し、自信のようなものがみなぎってくる。愛国心とか大和魂とか言ったって、目には見えないとらえ所のないもの。これを具体的なフンドシというモノにシンボライズすることで、愛国心も大和魂も揺るぎないモノになった気がしてくるのだから不思議である》
 フンドシなるものが、「日本民族の精神的支柱」として担ぎ上げられたわけだが、客観的にみれば、それは日本民族固有の下着である――わけがなかった。
 実のところ、古今東西の様々な文明下の服飾文化において、それに酷似した帯状の腰巻は歴然と存在し、日本古来からの下着ではあったものの、それが独創的な下着であったわけではない。米原氏はそれを調べている。以下は、その孫引きである。

 温帯、熱帯の民族には、女子のスカート状の腰蓑あるいは腰巻と対応した男子のふんどし一枚の姿が見られる。ペニスケースと同様性器の保護を目的とするが、装飾的な要素もきわめて強い。ふんどしというよりは腰帯といったほうが適切なものが多い。たとえば西部ニューギニアでは長さ九〇cmくらいの樹皮布を用いてふんどしにしているが、白地に黒や褐色で曲線や幾何学的文様の描かれた華やかなものである。ニューギニアでは女も締めている地方がある。アマゾン流域の原住民の中には、樹皮をちょうど相撲取りのまわしのように、分厚くぐるぐる巻きにした異様に大きなふんどしをしている種族がいる。性器を誇張するとともに、敵を脅かすという意味あいも含まれるようだ。ミクロネシアのヤップ島では、樹皮布や布のふんどしを用いるが、年齢により色や締め方が異なる。また広く東南アジアでは、ふんどしと半ズボンの中間のような形で、巻型の腰巻衣を股をくぐらせて装うものがある。腰に巻いた布のあまりを股にくぐらせて背の後ろにはさむのである。これは日常の作業に適した着装法として、古くから男女ともに用いられた。

平凡社『世界大百科事典』より引用

 以上を読めばわかるとおり、近代日本人においては、フンドシを勇ましさの象徴として担いだものの、「日本民族」の「精神的支柱」であることの根拠は乏しく、その神格化は万世一系のそれに比べ、あまりにも綻びだらけといえる。これを読んで私は溜飲が下がるのだった。

 されどパンツ――といいたいところだが、たかがパンツなのである。
 働くフンドシはかっこいい。が、人を殺めるまでのフンドシは、かっこいいとはいい難い。まさに、ジェームズ・M・ケイン(James Mallahan Cain)の小説ではないが、そのストーリーの生き写しをやってしまった日本の、“愛しきフンドシは二度ベルを鳴らす”――は許されないのである。

可愛い現代のフンドシスタイル

 「人新世のパンツ論」はこうして無事(?)に最終回を迎えた。
 これも読者の皆様の温かい真心のおかげである。

 総じて、冒頭のトクシック・マスキュリニティの説明であったように、この「人新世のパンツ論」が男性性を誇張し、「過剰な男らしさ」に執着していたものであっただろうか。
 いや違う。社会学的なジェンダーに関わる様々な案件を、この「人新世のパンツ論」にすり替えていたつもりは毛頭ない。男性が“男性用”パンツを穿くことにより、「男らしさ」を復権させようとか、新しいそれを発見してみせようとかの意向は、ここでは全く示していないつもりだ。

 ただ唯一、気がかりな案件だったのは、フンドシだった。

 旧時代のフンドシという下着のスタイルが、日本男児という「過剰な男らしさ」を想起させ、マスキュリンのシンボリックなアンダーウェアであったことを復古させてしまうのではないかという懸念。
 私はそうした意図でのフンドシを奨励しないし、「過剰な男らしさ」を暗喩するトクシック・マスキュリニティの代名詞としても、願い下げだと考えている。女性も大いにフンドシを締めればいい。
 「過剰な男らしさ」を誇示する意図はない――と断言したうえで、単簡なファッションとしてフンドシを眺めてみれば、なかなか面白いアイテムではないかと思う。
 とくにモダンなフンドシ風のパンツが、近年、多少なりとも出回っていたりする。この手の新しいフンドシ風のパンツは、「男らしさ」を強調するより、むしろ可愛らしさが先に立っておしゃれな気がする。
 私も試しに穿いてみたのである。

 パンツとしての違和感はない。

 たいへん短いショーツだということ。それに尽きる。
 他のパンツと比較すれば、単なるビキニの変形様態にすぎない――と思えるし、ことさらフンドシ、フンドシと狂喜乱舞するほどのことではないだろう。
 そう、フンドシは、今やスーパービキニの一つのスタイルにすぎないのだ。
 ワコールのフンドシ風のパンツは、やや和のテイストを醸し出しているが、やはり可愛らしいビキニの変形、そのバリエーションとして商品化されている。むろんこれはユニセックスなアイテムと考えるべきだ。

§

 「人新世のパンツ論」はこれにて終わり。
 ちょっと次回、読みたい人だけ読んでもらえればいい、“編集後記”なるものを記したい。

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