二つの序章―パゾリーニとリコーの印刷機

 私は長年、イタリアのピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)監督の映画に対して、インポテンツであったという事実はない。
 しかるに、このパゾリーニを特集したフィルムアート社の映画雑誌『季刊フィルム』(No.5/1970.3.1)は、まさに“映画狂の同人誌”――と呼んでいいものだが、それがずっと私の家の書棚に保管され、今か今かとパゾリーニ映画について私が語りだす瞬間を、あるいは紐解こうとする機会を待ち構えているかのように、ひっそりと静寂に――わざとらしくバサッと書棚から落っこちて、などといった超常現象すらも起こさずに――収まっていてくれたのは甚だ気の毒なほどであった。
 しかるに。
 そう、しかるに、私は本を閉じ、またいつぞやか開いては本を閉じ、ある一つの肖像だけを念じるのであった。それは、リコー社の電子リコピー「BS-320」なのである。

 オフィスの理想機=「小さな巨人」

 かつてオスマン帝国は、印刷機の使用を禁止したことがあった。およそ、社会は停滞した。
 そんなことをふと思い出したのだけれど、「小さな巨人」とは、いいえて妙である。印刷による複製技術は、確かに“社会の窓”であり、文字や画といった伝達手段において、その情報拡散と共有のための最適な、崇高で合理な、いわば魔法の玉手箱である。ある種の錬金術といってもいいのではないか。

 それはさておき、もしここに、あの広告の画像を掲載しなかったならば、誰が昭和40年代のリコーの印刷機に、興味を持つであろうか。いや、実際のところ、広告の画像を掲載したとしても、同じ理屈だ。
 電子リコピー? それがどうした? パゾリーニ映画とは何の関係も脈略も無いじゃないか。その電子リコピーに、いったい何か重要な秘密でも隠されているというのか?

 私にはまだ、さっぱりわからないのである。

 ともかくこの先、パゾリーニの『テオレマ』(“Teorema”/1968年)について語ろうと思っている。それはいずれのこと。それにしても、このざわざわとした「予感めいたもの」は一体なんだろうか、ということなのである。もう何年も本を開くたびにそれを眺めている、「小さな巨人」に対して、私はこれ以上無頓着でいられるだろうか。無慈悲にそれを黙殺して構わないのだろうか。いや、もはや耐えられない。耐えられそうもない。いや絶対に、耐えられないであろう。
 決して苦し紛れにこんなことを書いているのではなかった。何か、重要な、いや重大な、秘密が隠されているに違いない。これはあくまで予感である。何かとてつもない、大きな秘密がそこにあるのではないか――。

 まだなんともいいようがないのだけれど、いずれこの話は続けたいと思っている。しかるに、とりあえず、その日まで、ごきげんよう。

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