先日私が観た映画『早春物語』(監督は澤井信一郎)の“春の風景”が美しかった。思い起こせばそれは、学生だった頃に体験した、新学年に移行する時期の頼りない不安だったり、友と別れたばかりのさみしい心持ちの写し絵であったりしたのだ。
映画の主人公の高校生(原田知世)は、写真部に所属していて、「春」をテーマに校外活動で鎌倉の寺社を訪れ、ある場所で大きな桜の木を見つける。そしてカメラを構え、撮影しだすのだが、やがてほどなくそこに中年男性(林隆三)が現れる。
「春」をテーマに、桜か…。ずいぶん平凡だな――。そんなふうに中年男性はいって、高校生のあどけない心は揺らぎ、一蹴されてしまう。
私はそのシーンを観て、ある教科書のことを思い出したのだった。
数年前に入手した、光村図書出版の中学2年用の国語教科書。平成31年(2019年)2月発行となっているから、まださほど古くない教科書である。
詩人・大岡信の随筆――教科書の中では一般的な“エッセイ”とはいわず、“随筆”と称して学ぶ――「言葉の力」に、桜にまつわるエピソードが出てくるのだった。
桜色の糸で織った着物
京都の嵯峨にて。染織家・志村ふくみさんの仕事場を訪れた大岡氏。そこで志村さんに見せてもらったのは、桜色に染まった糸で織った着物だった――。
実はこの教科書の巻末に、「色いろ言葉[赤の仲間]」と題して日本の赤系の染料の名が23色示されていた。おそらく、大岡氏の随筆「言葉の力」に係る資料としてのものなのだろう。これを見ると、もうすでに日本人が忘れかけているかもしれない色の名がいくつもあった。その23色の名を列記してみる。
薄紅、撫子色、紅海色、洒落柿
鴇色、曙色、赤朽葉、桜色
長春色、朽葉色、蘇芳、中紅
猩猩緋、今様色、韓紅花、珊瑚朱色
照柿、緋、琥珀色、小豆色
牡丹、弁柄色、臙脂色
肝心の桜色に関しては、このような色だと記してあった。
《桜の花のような淡い紅色。遠くから満開の桜の木を見たときのような色》
近年の国語辞典でひくと、桜色は淡紅色――としか記されていないことが多い。語意として端的ではあるが、情緒が幾分足りない。この国語教科書にある桜色の解説に当てられた、《遠くから満開の桜の木を見たときのような色》とは鮮やかな表現ではある。
大岡氏は、見せてもらった着物のピンクをこのような言葉で表現している。
そのピンクは、淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかでしかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。
大岡信著「言葉の力」より引用
全身からしぼりだす言葉として
大岡氏は志村さんに、この色は何から取り出したのですかと訊ねた。すると志村さんは、「桜からです」と答えた。
大岡氏は想像した。それはきっと、桜の花びらを煮詰めて取り出したのだと。
しかし、そうではなかった。花びらを煮詰めたのではなく、桜の皮から取り出した色だったのである。しかもそれは、桜の花が咲く直前の、山の桜の皮をもらって取り出すのだという。
大岡氏はこう述べる。
私はその話を聞いて、体が一瞬揺らぐような不思議な感じに襲われた。春先、もうまもなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裏に揺らめいたからである。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった。
大岡信著「言葉の力」より引用
桜の桜色は、花びらをもってそれを桜色と私たちヒトは視覚的にそれを認識する。だが染織の例をとれば、花びらではなく皮からその色を抽出するのだ。つまり大岡氏が述べているように、桜の木は、その全身をもって桜色に色づいている、ということになる。
私たちヒトは、花びらのみが桜色なのだと思ってしまっている。が、そうではなかった。花びらが桜色になる木の生業に、それ自体が貫通して色づいていることに気づかない。しかし、それこそが肝心なのである。大岡氏はこう解釈する。《これは言葉の世界での出来事と同じことではないか》と――。
言葉が生み出される、紡ぎ出される背後には、それと同じ理屈で内部に貫通した言葉の源があるということ。私たちはそれをなかなか理解していないのではないか。
言葉の力への歩み寄りが時代と共に薄れている、あるいはそこに過誤があるのではないかと危惧する。言葉がただの言語として、要件を「伝える」ためだけの平面的な表現でのみ交わされていないだろうか。言葉は「伝える」と同時に、相手に「伝わる」のである。何が相手に伝わったかについて、少しばかり軽んじていないだろうか。
このことに付随して、近年のSNS界隈では言葉の暴力、誹謗中傷が後を絶たない。いいかえると、乱暴な言葉づかいが一般化して、それが当たり前となっている。相手を思いやる気持ちが薄れ、謙譲する意思が疎かになっているのだ。
言葉の暴力や誹謗中傷においては、軽はずみなものから深刻なものも含めて、まるでヒトは他人を言葉で傷つけることを厭わないかのようだ。得てしてその影響が、かえって言葉による表現手段の価値と能力を下げ、表現すること自体の機会を減らしているということも考えられる。なぜなら、全てにおいて自分の意志を「伝える」責任能力が問われるから、あえて言葉を発しない=「伝えない」という無難な選択肢を選んでしまいがちになるからだ。
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私はあらためて文学の底力、言葉の深みや豊かさ、その重みについて、研磨していかなければと思う。言葉はそれのみ力である。力であるからこそ、良心的な器量が試されている。
総じて対話的な言葉のやりとりは、声や文字によって「生きたヒト」でしか発信できないことを、肝に銘じておくべきなのだ。善意ある言葉は、体全体からしぼりだされるのである。
大岡氏の「言葉の力」という随筆――学びの授業でエッセイとはいわずに随筆と呼んでいたから、あえてここではそう呼ぶ――が、中学校の国語教科書の一つの単元「言葉と向き合う」――《表現を味わい、言葉の世界を広げる》において教材となっていたことに刮目する。
14歳の少年少女が、言葉の力のなんたるか、その表現性の根源に気づくための学習ならば、私という大人はそのことを自戒し、再び思い返す必要があるではないか。繰り返し繰り返し、このことを忘れずに反芻していたいのである。
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