※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年5月26日付「国博特別展『写楽』」より)。
【東博『写楽』】 |
昨日は良く晴れた1日で上野公園を散策。早速国博のパスポートを使い、東京国立博物館特別展『写楽』を観覧しました。
今回は“東洲斎写楽”という人物について、まったくと言っていいほど予備知識を持たずに入場しましたが、謎めいた写楽の存在と天才的な版元蔦屋重三郎の運命的な関係譚を知って、浮世絵の世界にぐいぐいと惹き付けられてしまいました。蔦屋重三郎は写楽の画の本質を見抜き、美人画は喜多川歌麿筆頭とし、役者絵の方を写楽に存分に描かせたというその直感的営業戦略は、何やら私にとっては、ジャズのブルーノート(レーベル)を築いたアルフレッド・ライオンとルディ・ヴァン・ゲルダーを思わせます。やはり古今東西を問わず、粋な仕事師というのは、評判が良く歴史に残るものだと感じます。
美人画について歌麿と写楽を比較した時、写楽の画をどう理解するかという点について、私は観覧中ずっと考えていたのですが、それが歌舞伎の女形を描いていたからという理由だけでは解釈しきれない、写楽の見事な(精緻なという意味ではない)写実性を言い当てるのは、なかなか骨が折れることかも知れません。
ただ私も直感的に、ある映画作品を思い出しました。市川崑監督の『獄門島』(1977年作品)です。
映画の中で登場する、草笛光子さん演じるドサ回りの女歌舞伎役者、あの存在感(草笛光子さんの見事なまでの演技を超えた役者的神通力)こそが、写楽の美人画に通じるものではないか、と思いました。
つまり、歌麿の描く美人画は、遊女の女としての通念的な艶を描いたのに対し、写楽の女形画はまさに役者が仕事をして汗する瞬間そのものであると。例えば、前者の「難波屋おきた」と後者の「二代目小佐川常世の一平姉おさん」などがわかりやすいでしょう。
因みに、市川崑監督の映画(そのうち特に金田一耕助シリーズ)では、度々劇中に遊女的な女性であったり、ドサ回りの芝居小屋、琴や三味線の稽古事や旅芸人などの情緒がちりばめられています。現代劇なので江戸時代そのものを描いているわけではないのに、市川崑監督の映画を観ていると、不思議とそういう浮世絵の世界を覗いた感覚に浸れるのです(『犬神家の一族』では犬神一族の面々を歌舞伎役者に見立てた菊人形が登場しますが、非常に浮世絵の世界に浸れる一方で、それが凄惨な殺人現場へと一変するという舞台のどんでん返し的な市川映画の醍醐味が味わえる)。
【東博正面玄関から】 |
さて、博物館内の何所何所にある椅子やソファーで休憩していると、それが自分にとって懐かしい場所であることも左右して、あまりにも贅沢に落ち着ける空間であることに、私はとても感極まってしまいました。それは重要文化財を散見する、という主たる目的以外の、私にとっての特別な空間すなわち精神的私的空間として、この場所が最適であるということに気づいたからです。
もし今後、何らかの特別な企画によって、“夜の”国博観覧が許されるならば、どんなに夢心地な空間となるかと、想像します。あのユリノキの真上に広がる夜の星座の瞬きを見ながら、ベンチに座って物思いに耽る…。もしかするとその星座はオリオン座ではなく不動明王かも――。
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