【寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』角川文庫】 |
今年に入って、寺山修司の文筆と映像の世界にどっぷりと浸かり始めた。この世界の、至る所から漂う臭気とは、いったい何か――。それは決して花の香りでも、柑橘系の香りでも、ない。乾いた土に雨が降り始めた時のあの匂い。授業参観が終わった後の、教室にしつこく残った母親達の安っぽい化粧品の匂い。あるいは鉄サビに指をこすりつけてしまった時の憤怒の匂い…。いや、そういうのではない。いずれも当て嵌まらない特殊な何かの匂いが、この世界から漂ってくるのは、確かなのである。
彼の著書『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)を読んだのだった。貪り読んだと言っていい。当ブログ「ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話」で触れたように、私が所有している角川文庫のそれの、平成22年改版の本の装幀は、淡い緑色をしていてまったく目に付きやすい。そしてこの装幀カバーの裏面には、こう書かれている。
《平均化された人生を諦めとともに生き、骨の髄まで慣習の虜となってしまう前に、まずはすぐさま荷物をまとめ家を出よ、実行あるのみ――。人生に逃げ場はない。覚悟を決め、想像力を働かせよ。眠っている血はいつか、目をさます。家出の方法、ハイティーン詩集、競馬、ヤクザになる方法、自殺学入門。時代とともに駆け抜けた天才アジテーターによる、日常からの「冒険」のすすめをまとめた、クールな挑発の書!》
(角川文庫『書を捨てよ、町へ出よう』装幀より引用)
この本は、光を失った《影》の空間において、たちまち黒みを帯びた濃い緑色に変貌する。緑色の特性というのは不思議なもので、明るい緑色は純真無垢な《少年性》をふるった明朗なる象徴となり、暗く深めの緑色は落ち着きを払った大人達の、“重い沈痛のうろたえ”を微かに含んだ《静寂》の象徴となって視覚にうったえる。アイルランドの三つ葉のクローバーには、“重い沈痛のうろたえ”が背後に潜んでいることを忘れてはならない。
むしろこうした緑色の変幻は、寺山修司という人の人格の、あるいは作家としての品格と言い換えてもいい、その両端の根源を表しているかのようでもあり、これ自体が寺山の象徴のアイテムとなっている。まことに優れた装幀である。私はこの本を手に取るのがやや恐ろしく感じる。寺山の世界とは、心地良い視覚的色彩のハレーションでありながら、単純には《猛毒》の根源であって、なおかつ蛾や蝶の「鱗粉」に触れた時のような不気味な不安の抽象なのである。
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『書を捨てよ、町へ出よう』に記されていた寺山の略歴を、書き出しておく。
《1935年、青森県生まれ。早稲田大学中退。67年、演劇実験室「天井桟敷」を設立。演劇・映画・短歌・詩・評論など意欲的に活動。主な著書に『田園に死す』『書を捨てよ、町へ出よう』ほか多数。83年、敗血症により47歳で逝去》
(角川文庫『書を捨てよ、町へ出よう』より引用)
私の10代の記憶においては、“テラヤマシュウジ”も“テンジョウサジキ”も、その名前だけが一人歩きしていて朧気な、どこか手の届かない演劇界の著名なる人物、またそのアングラ集団――といった具合の遠く離れた存在でしかなかった。
当ブログ「『震える盆栽』を読んだ頃」で書いたことだけれど、私は90年代初め、音響の専門学校に通っていたので、上野や下谷界隈をよく散歩した。授業の合間の散歩がてら、JR鶯谷駅付近の大通りにあった小さな書店を見つけ、伴田良輔の『愛の千里眼』(河出書房新社)を手に取ってしまったのが幸か不幸か、それがきっかけとなり、伴田のたぐいまれな嗜好のサブカルに見事に嵌まってしまったのである。
後年になり、懐かしくなってその書店を探しに出かけ、界隈を歩いたことがある。が、書店は見つからなかった。どうやら消えてしまっていたのだった。この出来事は比喩として、宮澤賢治の「注文の多い料理店」の恐ろしい結末あたりを用いたくなるのだけれど、消えてしまった書店で買った『愛の千里眼』は、枯れ葉の化けたモノではなく、今も引き出しの奥に正真正銘の本として、しまわれている――。
話が何のことかずれているように思われるかも知れないが、つまりこういうことである。もしその時、伴田良輔の本ではなくて、寺山修司の本を手に取っていたら、と仮定する。それは充分あり得たのだ。すなわちそこで、『書を捨てよ、町へ出よう』を手に取っていたならば、おそらく私の20代からの先の人生は、大きく異なっていただろう、と思うのである。その時既に私は、演劇に溺れかけていたのだから。
『書を捨てよ、町へ出よう』の初版は1967年である。昭和42年。その頃の日本の世相は、東京オリンピック以後の勢いでカラーテレビの普及が広がり、街にはあちこちミニスカートの女性が現れ、若者のアングラ族やヒッピー族、フーテン族が紫煙を燻らせて群れをなしていた、らしい。私はまだ生まれていない――。彼らが読むのは西欧の詩集。サルトルやヘミングウェイ。言うなればウィリアム・バロウズを代表とするビートニクの世代が若者の彼らにすべて置き換わった、学生運動たけなわの時代である。
各章の標題が少々、その時代の風俗におもねり、言葉の表現としては21世紀の今日の倫理観に相応しくはない。そぐわない向きもある。しかし当時、本質的に寺山は、それらを肯定、賛同、個人謳歌していたのではなく、いわゆるヒッピー族やフーテン族の若者に対するシニカルなレクチャー、個人主義への毒の効いたお節介、外連味のない言語のパッチワーク――と位置づけていたに違いない。むろんそこには、愛のこもったジョークが含有する。ちょい悪な言葉の天使が、私の脳髄を小突くのである。そうしたふうに、全体における彼独自の表現性を反芻したうえで、第二章の「きみもヤクザになれる」を読んでみると、まったく意趣に富んでいて面白いと感じるのである(寺山が愛好する競馬の話ばかりだが)。
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第二章のうち、「三分三十秒の賭博」は秀逸で、私の好きな随筆である。
冒頭、ある映画の話が伏線となっている。ジョン・ヒューストン監督(ちなみに彼の遺作は原題“The Dead”=『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』。原作はジェイムズ・ジョイス)の1950年の映画『アスファルト・ジャングル』(“The Asphalt Jungle”)。原作はウィリアム・ライリー・バーネット(William Riley Burnett)。主演はサム・ジャッフェ、スターリング・ヘイドン、そしてマリリン・モンロー。
――国境まで逃げ延びた一人の犯罪者。彼はドラッグストアに駆け込みコーヒーを飲む。ジュークボックスに目が止まり、10セントを入れて曲をかける。その音楽に彼は耳を傾ける。曲が終わり、立ち上がると、刑事が立っている。彼は逮捕されてしまう。そうして店のバーテンに訊ねるのだ。「このレコード一曲は、何分かかったかね?」。バーテンは答える。「三分半くらいですよ」――。
大金を手にしたはずの大強盗が、たった3分30秒の休息をしたために、その成功を棒に振ってしまったという悪党の悲劇。寺山が大好きだというこのギャング映画『アスファルト・ジャングル』の“ラスト・シーン”に触れた随筆「三分三十秒の賭博」は、その話題から今度は、競馬での3分30秒に転じ、瞬時とも言える凝縮された人間と馬のメイク・ドラマ、賭博師としてそこに勝負をかける執念と刹那を言い表す。《三日に生甲斐を想じるものよりも三分に生甲斐を感じるものの方が「より多く生きられる」ことになるし、いかにも「生き急ぐ」ものの栄光と悲惨とがナマナマしく感じられる》と述べ、最後は物の見事にダービーの“予想屋”の文章と化している。ニホンピローエースかシヨウグンか…。いやいや、シエスキイかアポオンワードか…。《損するつもりで買う馬はヤマニリユウ》?
彼の言う“ことしのダービー”とは、おそらく昭和41年5月29日東京競馬場の「第33回東京優駿」のことではないか。
タイムはどうやら速かったらしい。ニホンピローエースは20着。シヨウグンは9着。シエスキイは11着でアポオンワードは10着。寺山が損をするつもりで買ったであろうヤマニリユウは5着。“予想屋”としては、大惨敗の結果である。寺山の、幾分ボロボロな気持ちで表に出る苦笑いが、本を閉じる瞬間に想像として脳裏に浮かんでくる。それでいて、《私の三分三十秒レースについての「予想」》と締め括った濃密な競馬話は、たいへん熱く面白く、愉快な気持ちにさせてくれるのであった。終わり。
おっと――うっかり書き忘れるところであった。『アスファルト・ジャングル』の“ラスト・シーン”について。
実はあれはまったく、“ラスト・シーン”ではないのである。寺山は過分に、あのシーンの説明描写で嘘をついている。あるいはとぼけているか、昔観た映画だということから、記憶違いをしていたか。
あのシーンは、男がクリーブランド(オハイオ州)ヘ逃亡する途上の夜の、出来事である。男が入った店には、若い男女3人が既に居た。そのうちの男女が、ジュークボックスのジャズの音楽を奏でながら、激しいダンスを踊っている。もう1曲踊ろうか――といったところで、小銭がないことに気づく女。逃亡の男は、気前よく若い女にばっさりと小銭を差し出す。そうして再びジュークボックスから音楽が流れ、彼らは踊り出す。
しばし女の踊りに見とれる逃亡者。その目つきは何故か異常である。
男は先を急ぐために店を出た直後、警官二人に取り囲まれる。盗まれた宝石を持っていることがばれ、逃亡計画はここでおじゃんとなる。男は警官に訊く。「いつからここに?」。警官は答える。「窓越しに2分か3分ほど見ていた」。男は逡巡とせずに、ぼやいた。「なるほど。レコードの長さと同じか」――。
この逃亡の男、すなわち強盗の常習犯ドクを演じたのは、ニヒルで渋い演技を好演したサム・ジャッフェ(他の映画『地球の静止する日』や『ベン・ハー』が有名)。しかしながらこの後のシーンで、スターリング・ヘイドンが演じる仲間ディックスが、自分の故郷の田舎の牧場で尽き果てるのであった。したがって、若者の踊りに取り憑かれるジュークボックスのシーンは、“ラスト・シーン”ではない。
そうして本当の“ラスト・シーン”――ディックスが死ぬ直前にぼやいた「おやじが黒馬を大事にしていれば…うまくいったはずだ…」という遠い過去の馬の幻影を、現世に遺して死んでいった愚か者の声は、寺山の記憶には果たして、残らなかったであろうか。
コメント
ちなみにダービーの優勝馬のタイムは3分30秒ではなく、2分30秒前後。これも寺山修司のおとぼけ?記憶違い?
コメントありがとうございます! 私は寺山さんのそんなアバウトさが好きです。昭和の30年代から40年代にかけて、ハイスピードだとかインスタント的な価値観が、世俗を占有していたように思います。小川ローザの“モーレツ”のコマーシャルが流行るのはもっと後ですけど。寺山さんが、というよりも、多くの人たちがけっこうアバウトだった、のかも知れませんね。