学生文芸誌『どん』と遊郭について

【千代田工科芸術専門学校・芸術課程の学生文芸誌『どん』】
 私の母校の千代田工科芸術専門学校(東京・台東区)の学生文芸誌『どん』第15号(1992年春季特別号)については、鈴木清順監督の映画『夢二』の稿で既に触れた。この第15号には他にも、これはと思える興味深い記事があった。吉原の遊郭についての記事である。
 堀江雄一郎・秋吉茂監修の「特集 『浅草』いま・むかし」という見出しの、25ページにも及ぶ長い記事がある。これは、浅草を舞台にした映画や文芸、軽演劇について詳しく述べられた貴重な資料といっていいのだが、とくに浅草の街がかつて――江戸から昭和にかけて――日本に誇る軽演劇の一大歓楽地であったことは、今の時代にもっと知られてよいのではないかと思われる。
 この長い記事の中には――学生の文芸誌でありながら――驚くべきこととして、「江戸最初の遊女町」という吉原の遊郭についての稿があり、私は眼を疑った。これを書いたのは、当時マスコミ文芸科1年の、木内真希さんである。まことに丁寧かつ淡麗な文章を書き、清楚な趣もいくぶん感じられ、読み心地がいい。
 千代田の学校から歩いても遠くない浅草界隈を題材に、しかも古き時代の遊女――主に吉原遊郭――云々の記述が含まれていたことは、監修者の面目躍如ともいえよう。しかしながら、それにしても、取材した木内さんのそこはかとない執筆意欲を想像すると、学生の域を既に超えていたのではないか。並大抵の努力では結実しえない文体の記録。言うなれば、プロフェッショナルの考えを持った人だったようである。
 学生の身分として、既に文化人としての素質があった木内さん。避けようと思えばいくらでも避けられたであろう吉原の遊郭についてどっぷりと調べ、プロ顔負けの記録を挙げている。ジャーナリストとしての健全性も感じられ、史実を炙り出す度胸の、そういった心構えが、文面から窺えるのであった。
 私はこの間、鈴木清順監督の“(大正)浪漫三部作”について掘り下げるべく、学生文芸誌『どん』を何年ぶりかで開いた。
 この「江戸最初の遊女町」が目にとまり、これを無反応に通り過ぎるのはいささか気が引ける。したがって、いまここで、これについて触れることとしたい。多少、三部作の稿がまとまるまで時間を要してしまうのは申し訳ないが、ご容赦願いたい。
【「特集『浅草』いま・むかし」にある「江戸最初の遊女町」の稿】

江戸の遊女屋の形成

 木内さんが書いた文を、その意図を崩さずに順を追ってなるべく拾い起こしてみたい。
 慶長十七年(1612年)に庄司甚右衛門という人が、遊女町の開設を幕府に出願した。諸説あるが、甚右衛門は小田原北条氏の牢人であったらしい。むろん、ここでいう牢人とは、「牢に入れられた人」ではなく浪人のことで、主家を離れて禄を失った武士のことを指す。
 その頃の江戸には、麹町や鎌倉河岸、柳町に相当の遊女屋があつまっていたが、町を形成するほどではなかった。江戸に遊女町をつくりたいという甚右衛門の出願が認められ、日本橋葺屋町東側(現在の日本橋人形町あたり)に連なる土地――二町四方(約0.048平方キロメートル)――が与えられ、ここに遊女町を建設し、翌年の11月に店開きとなった。《卓抜なアイデアである。それを実現しようとした甚右衛門は、なかなか目先のきく人物だったといえる》と木内さんは記す。
 遊女町は遊郭(ゆうかく)とか遊里(ゆうり)と呼ばれた。傾城(けいせい)町ともいう。四方を堀や石塁で囲み、遊女を住ませた区域(町)である。いわゆる集娼制を配し、遊里葭原とした。もと茅葭(かやよし)の繁茂する沼沢地だった。一大歓楽街となって繁盛したので、めでたい字をあて吉原とあらためた。寛永三年(1636年)のことである。
 公娼であった吉原遊郭は大いに賑わったが、寛永十三年の頃になると、湯女風呂(ゆなぶろ)があちこちに栄え、賑わいに陰りがみえ始めた。吉原保護のため、私娼の湯女を取り締まったものの、さほど効果はなく、吉原は不況のどん底で喘いだ。

旧吉原から新吉原へ

 寛永十九年(1642年)に、はじめて吉原細見『あずま物語』が刊行される。吉原細見というのは、吉原遊郭に関するガイドブックであり、そこには当然ながら、遊女の情報が記されている。国立国会図書館所有の同書を見てみると、太夫75人、格子31人、端女郎881人の計987人の遊女の数の記述がある(※木内さんの引用では、太夫71人で計983人となっていた)。ちなみに、この時の妓楼数は125軒で、揚屋の数は36軒である。
 この頃、外野の湯女風呂の跋扈に加え、寛永十七年には徹夜営業が禁止され、その翌年に遊女の原則外出禁止令が出て、出張営業ができなくなり、いっそう経営は苦しくなった。
 明暦二年(1658年)、幕府は吉原の名主や年寄らを町奉行所に呼び出す。奉行の石谷将監は、本所もしくは浅草日本堤(現在の台東区千束)への移転を申し渡した。名主や年寄らは移転の取り消しを歎願したが聞き入れられず、やむなく浅草日本堤への移転を決断した。
 移転にあたって幕府は、新地の土地の広さをそれまでの5割増しにすること、引越料を支給すること、夜間営業の許可などを保証した。『江戸東京学事典』(三省堂)によると、これに加え、私娼湯女の潰滅をも条件にしている。
 ところが、天は無情というべきか無慈悲というべきか――江戸に思わぬことが勃発する。
 明暦三年、1月18日に起きた「明暦の大火」である。
 いわゆる振袖火事である。施餓鬼に焼いた振袖が舞い上がったのが原因といわれ、江戸の町が広範囲に焼失した。焼失した町の数800町あまり。死者は10万人といわれている。
 むろん、吉原も全焼した。焼け跡では細々と営業を続けていたが、その年の6月、町奉行から移転を急ぐよう厳命が下る。やむなく同月に小屋掛けを引き払い、浅草に移った。
 ただし、浅草日本堤の工事はまだ完了していなかった。町奉行の指図により、急場しのぎでありながら、今戸や三谷、新鳥越あたりの百姓家を借り、営業を開始した。工事が完了し、新居へ移転したのは、8月のことである。
 この新地を新吉原と呼び、旧地を旧吉原と呼ぶ。吉原という名称は、江戸唯一の遊郭を指す言葉となった。

岡場所の繁栄

 元禄年間(1688年~1704年)には、遊客の階層が、武士から町人へと変わっていった。江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉の頃である。紀文(紀国屋文左衛門)や奈良茂(深川の材木商の奈良屋茂左衛門)といった“にわか成金”の町人が多く豪遊したという。この頃、太夫3人、格子57人、端女郎418人、散茶女郎1,000人あまり、次女郎1,300人あまり(※木内さん調べ。局女郎の数は記されていない)。
 ちなみに、遡って万治元年(1660年)の吉原細見によると、太夫3人、格子67人、局女郎365人、散茶女郎669人、端女郎1,104人の計2,208人。おおむね、2,000人を前後して推移している。
 余談になるが、安政二年(1855年)には、遊女の数は3,000人を超えている。
 遊女の数の推移は、まるで江戸の景気不景気をはかるバロメーターのようであった。実は、享保五年(1720年)にも、3,000人を超えていた。
 そこは、不夜城の賑わいであったという。
 木内さんは、『吉原丸鑑』を調べたようで、私も国立国会図書館のライブラリーより第六巻を閲覧してみた。――この年、京町三浦屋四郎左衛門抱えの高尾、薄雲、江戸町七郎右衛門抱えの音羽、初菊、白糸、京町三浦屋甚左衛門抱えの三浦の太夫6人が、「揚屋の六美人」と称されて全盛を競ったというのである。
 公娼の吉原以外に、方々で非公認の岡場所(有名なところでは深川、本所、根津、音羽など)が乱立した。そのため、宝暦十年(1760年)、玉屋抱えの花紫を最後に、太夫職が消えた。太夫がなくなり、揚屋の制度も消えたのだ。
 宝暦年間(1751年から1764年)に岡場所の数は40ヶ所に膨れ、安永三年(1774年)にはおよそ60ヶ所に増えた。
 太夫や格子女郎を相方とする場合の吉原遊び――揚屋遊び――は、面倒な手間と諸経費を著しく浪費しなければならなかった。
 諸経費の内訳は大雑把にいうと、遊女の揚代のほか、揚屋の仲介料、宴席の芸者や幇間の祝儀、勤めに出て間もない遊女の新造(しんぞう)、上級の遊女に使われる見習い少女の禿(かむろ)、妓楼で遊女を取り締まり万事を切り回す遣手(やりて)、それから若者という位の者に対して支払う祝儀がある。この場合、遊女の方が客が気に入らずにふることもあった。
 一見さんお断りの方針はともかく、太夫ともなれば、その遊びの形態は、まことにクラブ化した身分の担保を要する高尚なものであった。
 翌年(宝暦十一年)の吉原細見には、太夫が一人も記載されなかった。格子女郎とも名目のみとなり、揚屋の衰退に拍車をかけたのは、引手茶屋の繁昌があったからである――と、『江戸東京学事典』で記されている。
 引手茶屋は、遊客を揚屋に案内する機能をもっていたものの、直接遊客を遊ばせるようになったので、費用も手続きも簡便化されていた。つまり、客のニーズに合ったものだったのである。引手茶屋の繁昌のほかに、客をふらない下層の散茶女郎が全盛となったのもこの頃で、この手の話はまったく興味深く、関心が尽きないのである。

明治以後の吉原遊郭

 慶応四年(1868年)の明治新政府以後、新吉原は、旧幕府時代と同様にして、公認の遊里として存続が許された。再び活況を呈したという。木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛ら新政府高官たちも、新吉原で大いに豪遊した――と、木内さんは書いている。まことに鋭い。
 明治五年(1872年)の7月1日、ペルー船籍の帆船マリアルーズ号から、中国人の苦力(クーリー。下層の労働者で、荷担ぎ夫、鉱夫、車夫など)が脱走し、横浜水上警察に救いを求めた、「マリアルーズ号事件」(マリア・ルス号事件)が契機となり、同年の10月に政府は、僕婢娼妓解放(芸娼妓解放令)を布告。
 これにより、新吉原は急速にさびれたものの、岡場所は以後も黙認され続けた。
 昭和三十三年(1958年)の4月1日、既に公布されていた売春防止法の罰則施行がはじまり、新吉原は、江戸期から続いていた遊郭としての長い歴史に幕を下ろした。
 こうした風俗が、大正期の東京に根を下ろしていた点を踏まえつつ、鈴木清順監督の“(大正)浪漫三部作”を鑑賞する際に――必ずしも映画がこれらに触れるわけではないにせよ――遠縁にある文化の一背景として認識しておくべきかと思われる。
 次回、「幻の性訓書のこと」の話は、こちら

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