【映画の記念盤EP『ツィゴイネルワイゼン』サウンドトラック】 |
一投目の『夢二』(1991年)については、私の母校の講師だった清順先生との想い出話と併せて「鈴木清順『夢二』に挑んだ十九歳の投光」に書いた。
今回は、二投目ということになる『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)についてである。主演は原田芳雄、藤田敏八、大谷直子、大楠道代、麿赤兒。配給はATG(日本アート・シアター・ギルド)及びリトル・モア。
日本アート・シアター・ギルド
いま私は、『ツィゴイネルワイゼン』に詳しい文献として、1981年1月刊の「アートシアター144号」を開いている。
「アートシアター」は、かつて日本アート・シアター・ギルド(ATG)の上映専門劇場であった日劇文化劇場などで、特別に販売されていた広報誌である。毎号その表紙に掲げられている、やや息づかいの荒い毛筆風の題字を書いたのは、何を隠そうあの伊丹十三氏だ。最近になって私は、この144号を古書店で入手した。
1981年(昭和56年)というと、私はまだ小学3年生であった。しかしながら、映画に対する熱情の度合いはすさまじく、大人のそれを凌駕していたといっていいのではないか。“映画狂”の少年、モダンな言い方をすれば、“シネフィル・ギャルソン”であった。
小学3年の頃を思い出してみると、ちょうど松山善三監督の『典子は、今』を観たころである。サリドマイドの薬害で両腕がなく生まれた主人公・典子の若き冒険譚であり、家族との葛藤も含め、たいへん衝撃的でありながらも心が熱くなるような、生への希望に満ちた映画であった。
当時、『典子は、今』は文部省推薦作品であり、校内で児童らに招待券もしくは優待券が配られたのとは対照的に、前年春に封切られた『ツィゴイネルワイゼン』は、むろん“大人の映画”であり、小学校内で語られる映画ではなかった。もしかすると校内の小学生のあいだで、“スズキセイジュン”を知っているのは私一人だけだったかもしれない。
『ツィゴイネルワイゼン』が闇然とした雰囲気の“大人の映画”であることを、そしてまたそれが暗い基調をあしらっていたせいもあって、私はなんとなく淫猥なものとして理解していた。“スズキセイジュン”という人は、“大人の映画”を創る人――とひそかに心をときめかせていたのであり、端的に何か〈男と女のいやらしいものを描いている監督〉と直観していたのだった。
しかしそうでありながら、大人たちが淫猥でいやらしいものを「すこぶる欲している」ということに関しては、私はまだよく理解していなかった。学校の先生であろうとも、例外なく同じ大人であるということを――。大人たちは都合よく、あの映画については触れず、『ツィゴイネルワイゼン』を子どもであった私に「見せなかった」わけである。どこか自慢げだった“映画狂”の自己顕示欲としては、甚だ遺憾な瑣事であった。
【「アートシアター144号」より。鬼気迫る表情の中砂(原田芳雄)】 |
そんな話はともかくとして、この「アートシアター144号」の冒頭では、当時日本アート・シアター・ギルドの取締役社長であった佐々木史朗氏の、「由々しき事態」を告げる挨拶文が、堅固たる荘重とした明朝体で掲載されている。
その挨拶文を簡便にまとめると、こうだ。
1962年4月に封切した『尼僧ヨアンナ』からスタートした日劇文化劇場が、19年間ATG映画の上映専門劇場としてファンに親しまれ、今回の『ツィゴイネルワイゼン』を最後に、3月にて改築計画のために閉鎖する旨、有楽シネマがATG映画の上映を引き継ぐことになりました――。
東京都の再開発事業によって、有楽町の広々とした一角の日劇は取り壊され、3年後の10月には、その同じ一角に有楽町センタービル(通称有楽町マリオン)が現れる。日劇については、「『洋酒天国』―ジャズと日劇〈2〉」で触れている。
子どもの時分として有楽町周辺では、むしろマリオンよりも玩具販売の博品館の方に惹かれていたりもした。この点は、“シネフィル・ギャルソン”と矛盾するのである。
あの頃大ヒットした超合金の合体ロボット系のオモチャは、ややもすれば田舎の子どもたちがすこぶる憧れて、働き盛りの親にそれをねだって買い求め、逆に都会の子どもたちはそんな超合金などという豪奢なオモチャになんか興味はなく、古めかしくも淫猥なサーカスの、派手な衣裳を着た道化師の誘惑を感じさせるような、極彩色を放つペロペロキャンディーの方が、なまめかしく好きなのだ――と、有楽町の博品館を訪れて真に感じたものである。あの頃東京は、すべてものがサーカスの曲芸にすぎなかった。
確かにその頃大人の趣味趣向について、私は理解し得ていなかった。が、少なくとも子どもにあてがった特撮モノのゴジラだとかウルトラマンだけを観ていては、何かが欠落してしまう。むろん将来本当の意味での大人になんかなれはしない――。
“映画狂”に対する慣性の法則、強迫観念、あるいは危機感そのものがあったのは事実である。観ることの許されなかった『ツィゴイネルワイゼン』にこそ、大人になり得る道筋が秘められているのではないか――。そう信じたのも無理はなかった。
大人の事情で消滅していった日劇文化劇場の歴史が、映画『ツィゴイネルワイゼン』で閉じられたというエピソードは、なんとも物悲しくつたわり、映画文化人が集う場としての、そうした熱意ある文化的営みを削ぐ不穏なモノローグであったといわざるを得ない。
やがて80年代が終わり、物事の価値観はひたすら自己利潤のみの成長主義を突っ走り、淡い文化的教養への関心は薄れていった。すなわち、甘いだけのペロペロキャンディーは捨てられ、姿を消してしまったのである。
【青地(藤田敏八)とその妻周子(大楠道代)】 |
サラサーテの盤
大人になってから、伊藤整の「青春について」であるとか唐木順三の青春論を想いつつも、清順先生の映画を観た時、仄かな感動――この場合、噂に聞いていた『ツィゴイネルワイゼン』を観たことに限定する――を抱き、これほどまでに奇々怪々、異様な作品だとは思ってもみなかったという驚歎の観念があったのは、個人的に内田百閒に不勉強できてしまったせいでもあった。
『ツィゴイネルワイゼン』の原作(モチーフ)は、百閒の「サラサーテの盤」(1948年)である。ほかにもいくつか百閒の「冥途」や「旅順入城式」などの作品もモチーフとして盛り込まれている。
この映画は、「サラサーテの盤」を大いに脚色しつつ拡張し、清順監督らしい映像的眩暈を織り交ぜながらのストーリーとなっている。映画の冒頭、二人の男の声――中砂と青地――で、サラサーテがヴァイオリンを弾いているSP盤「ツィゴイネルワイゼン」(“Zigeunerweisen”/1904年録音)について語られる。そこで、“サラサーテの声”がきこえてくるのだった。
豪放磊落な遊子・中砂を演じているのは原田芳雄。「私」=青地豊二郞は、秋吉久美子主演の映画『赤ちょうちん』(1974年)や浅野温子主演の『スローなブギにしてくれ』(1981年)の監督者である藤田敏八で、この中砂の親友で寡黙な男・青地の肩書きは、「陸軍士官学校独逸語教授」である。
「陸軍士官学校独逸語教授」という肩書きは、百閒が大正5年に任官された陸軍士官学校時代のそれを、そっくりそのまま借用したものだ。百閒の傑作ルポルタージュ『第二阿房列車』において、東京・上野から新潟に旅する記述の中に、大正12年の大地震より何年か前、《陸軍教授を拝命し、陸軍士官学校の教官であった》とあって、一応、映画の登場人物である青地は百閒自身であるととらえてもおかしくはない。この映画で描かれている時代は、百閒のその頃よりも少し後年のようで、おそらく大正末期か昭和初期であろうかと思われる。
ところで原作の「サラサーテの盤」を、私はちくま文庫の集成で読んだ。
映画ほどサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」が文脈の中で強調されているとは思えなかった。にもかかわらず、不気味なほどその曲の存在感が際立っていた。
中砂の未亡人(おふさ)の家に「私」がその十吋盤を返しに行き、ビールをごちそうになってくつろいでいると、おふさは急に思い出して中砂の蓄音機にその盤を掛け、ヴァイオリニストのサラサーテが自奏する「ツィゴイネルワイゼン」(文中ではチゴイネルヴァイゼン)を聴く。演奏中に突然、“サラサーテの声”がきこえてくる。
“サラサーテの声”が吹き込まれてしまっている十吋盤(SP盤)については、こういう記述がある。
《それは私にも覚えがある。吹込みの時の手違いか何かで演奏の中途に話し声が這入っている。それはサラサーテの声に違いないと思われるので、レコードとしては出来そこないかも知れないが、そう云う意味で却って貴重なものと云われる》
(ちくま文庫・内田百閒集成4『サラサーテの盤』より引用)
おふさが蓄音機にそれを掛け、「私」と二人で聴いている時、演奏の途中でサラサーテの声が一瞬きこえる。するとなんと、突然おふさが「いえ。いえ」と答えてしまう。
「違います」――。おふさは亡くなった中砂と対話するかのように、“サラサーテの声”に反応してそう答えるのだ。「きみちゃん、お出で。早く。ああ、幼稚園に行って、いないんですわ」。そう言っておふさは思わず泣き出し、この掌編は了わっている。
映画では最も初めにサラサーテの盤=「ツィゴイネルワイゼン」が流れてくる。
ちなみに原作において、サラサーテの盤への深い言及があるとすれば、最後の段落の箇所だけだといっていい。おふさは奇妙なほどしつこく中砂の遺品を返して欲しいと「私」に催促し、その異様さがとうとうと語られる。
エピソードの結実としては、“サラサーテの声”を聴いておふさはそれを中砂の声と信じ、この世にいない中砂と対話をし、ある種の哀感を引き出している。こうした心霊現象的なやりとりが何を企図しているのか、全ては読者の想像に任せるといったような作品であり、まことに百閒らしい作風である。
【園と小稲の二役を演じた大谷直子】 |
サラサーテの長い氏名
「サラサーテの盤」のなんとなくおどろおどろしい感じが、“サラサーテ”という言葉の響きの余韻に引きずられ、映画として不穏さの濃厚な旨味として見事に印象づけられている。
――ここで話の腰を折るけれども、サラサーテの名前について触れておきたい。
1844年スペインに生まれた作曲家兼ヴァイオリニストであるサラサーテのフルネームは、こういうように長い。パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス(Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz)。
日本人からすればこれほど長ったらしい名前はない。一度聞いただけで復唱できる人は少ないのではないか。名前の長短は別にして、私はパブロという言葉の響きが好きなのである。
パブロ(Pablo)というのはスペインの「男性」を表す名だという。パウロとかパウルとかポールも同じ意で、日本人の名で喩えるならば、義男、真男といった名につく「男」と同じであると考えればいいのではないか。むろん「雄」であっても同様だ。
ただし、スペインの「男性」の宗教上の洗礼名――という意味づけを考えると、単純に日本人の義男さんとか真男さん、春雄さんにつく「男」と同じかどうか、はっきりしたことは述べられず、恐縮ながら私の不勉強でよくわからない。たとえそうであっても日本人の「男」や「雄」は、明治期以降の富国強兵時代の名残であって、戦後期もなぜかそれに奨励し、子に「男性」としての勇ましさや力強さを求めたのは明らかである。
ともかくパブロと聞けば、スペイン由来の「男性」――と思って間違いない。
有名なのはパブロ・ピカソである。ピカソのフルネームを調べると、こんなふうにだらだらと長い。
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ(Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picasso)――。
同じくスペインの作曲家でチェロ奏者であったパブロ・カザルス(1876年生まれ)のフルネームも、パウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・ダフィリョー(Pau Carles Salvador Casals i Defilló)となかなか精妙で麗しさの香料が含まれている。
日大の理事長に同大学出身の作家・林真理子氏が就任したのは、今年の7月1日のことで、日大が所有しているカザルスホールの名の由来はいうまでもなく、パブロ・カザルスである。カザルスホールが収容されているお茶の水スクエアA館は、主婦の友社の旧社屋のビルを取り込んだ設計(大正14年竣工)となっており、旧社屋の方の設計者は、アメリカの建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏である。ヴォーリズもまた、敬虔なカトリック信者であったらしい。
【中砂と周子の異常なる接近】 |
サラサーテは何を発しているか
ついで、“サラサーテの声”について少し触れておきたい。
近年私はよく日常的に、いわゆる“南米移民者”の人たちと接する機会がある。彼らがスマートフォンでメッセンジャーだとかワッツアップの通話アプリで親しい人と会話を楽しんでいる様を見ていると、というか耳で話し声を聴いたりしていると、それがポルトガル語なのかスペイン語なのかは別として、音声として――むしろここでは音韻唱法といいたいが――日本語とは全く別物の、遙か遠い国の言語の音の波形を聴いているといったような、聴き慣れない音への哀愁を覚えるのだ。
つまり、言葉が音の波形として耳に入ってくる際の、異国情緒の感である。彼らのしゃべるコロコロとした言葉の断片には、妙に軽みがあって味わい深く、日本人の声態ではないとはっきり認識できる「遠い国の声の多様なる哀愁」に、思わず感動してしまうのだった。
映画の中で中砂と青地が、“サラサーテの声”を何度聴いても何をいっているかわからない――と鬱ぎ込むシーンがある。
わからずとも仮説がてら、こんなことをいっているのではないかと会話しても良さそうだが、一切そういうシーンは出てこない。映画を観ているこちらも、サラサーテが何をいっているのかわからぬまま不明で終わるので、ある種のじれったさを覚える。
ちょうどいいぐあいに、この音源が収録された貴重なバイナルが手に入った。
それは映画『ツィゴイネルワイゼン』の製作記念盤EP(シネマ・プラセット製作)であった。A面に、サラサーテ自奏の「ツィゴイネルワイゼン」が刻まれている。
――さすがに録音された音源は1904年(明治37年)とあって古めかしい。まさにアンティークの趣がある。サラサーテの弾くヴァイオリンは悠然としていて重々しく、ヴァイオリニストのフアン・マネン(Joan Manén i Planas)によるピアノの伴奏は、サラサーテのヴァイオリンの音色に密着してほとんど離れることがない。
「ツィゴイネルワイゼン」は、移動して生活する放浪の民ジプシーをモチーフとしている。ドイツ語で“ツィゴナー”(Zigeuner)といって彼らのことをそう呼ぶ。劇中、中砂がこの「ツィゴイネルワイゼン」にこだわるのは、自らの遊子的嗜好と絡んで哀調の愁眉を嗅いでいるせいかと思われる。
むろん、演奏自体はクラシックな情趣に包まれ、少々埃臭さが漂う中でその鼻孔をくすぐる麗しさが感じられる。私が自宅のプレーヤーで聴いていると、映画と同様、演奏途中で“サラサーテの声”がきこえ、思わずはっとなった。――中砂ではなく青地の心境である。まことに映画の一部を追体験しているかのようで、つい恐ろしくなってしまった。
ただし、実際サラサーテは、中途で演奏の段取りに関する合図を相方のマネンに送ったために、ああいった声(ノイズ)がマイクロフォンに拾われてしまった――というのが、どうやら真相らしい。このことは映画の妙味を削ぐ話なので、忘れてしまってかまわない。
【盲目の旅芸人を演じた麿赤兒(右)】 |
清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』
原作におけるおふさの孤独な心理状態を描いた箇所――“サラサーテの声”を呼び水として死んだ中砂と対話する――が、映画『ツィゴイネルワイゼン』では大いに解釈が引き延ばされ、主たる観念となって「幻聴に帯びた不穏」を通底としていると考えるべきかもしれない。総じてそれが、清順監督の追い求めた映像美学――“大正浪漫”的な美意識の中のオカルト心理劇――なのであった。
しかしながら、本当の怖ろしさは、もう一つ別のところにある。
映画を観ていて思わずぞっと寒気がしたのが、青地の妻・周子(大楠道代)が飄々とした面持ちで「腐りかけた水蜜桃」をまるごとかじるシーンである。まるで人間の肉片をかじっているかのような、得体の知れない怖さがあった。その場でそれを見ている青地は、どことなく生気を失っているかにも見えた。
この青地が、死んだ親友・中砂と彼に連れ添った女二人(園と小稲。演じているのは大谷直子)と懇意に客体的に接しているかに見えて、実は逆なのではないかということ。すなわち青地こそが、この世におらぬ死者であり、中砂は実存して青地を客体的に眺めているのではないか――。こういう示唆が、映画の最後の最後で顕れる。
切り通しの道の向こうで待っていたのは、中砂の子である豊子だった。「お父さんは元気よ、おじさんこそ生きてるって勘違いしてるんだわ。さ、約束だから御骨をちょうだい。参りましょう」。豊子はそういって青地を誘おうとする。
青地はその場を逃げ出す。が、逃げている自分が本当にこの世で生きているのか、もしかすると自分はこの世の人間では無いのではないかもしれん、ということに気づいて恐怖に駆られその場を逃げた――とも解釈できる。
男と女の色恋沙汰と美醜を絡めた清順監督の“大正浪漫”は、屍への接吻にともなう臭気がただよう。女の股から蟹が何匹も出てきて、その蟹は死体を喰っているから、甲羅も脚も妙に赤い色をしている――なんていう中砂の話が出てくるが、あの「ツィゴイネルワイゼン」のヴァイナルの裏と「アートシアター144号」に、こんな文言が添えられていてそれを象徴していた。
《生きているひとは死んでいて、死んだひとこそ生きているような むかし、男の妾には そこはかとない女の匂いがあった。男にはいろ気があった》
(1981年「アートシアター144号」より引用)
転じて我々は、生きたひととしてこの物語を眺めているのであろうか。実は既に、死者であることすら気づかぬまま、生きている人の時空を至近距離で眺めているだけにすぎないのではないか。“サラサーテの声”がいつまでも耳から離れようとはしないのは、そうした不安があるからだ。
百閒と清順先生が、おそろしい世界を現出させている。
追記:「鈴木清順『陽炎座』―アナ・ボルの時代」はこちら。
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