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【ザッカーバーグ氏の桃源郷メタバースは何処へ?】 |
私は日頃、メモ魔である。本を読みながら、新聞を読みながら、映画鑑賞をしていながら、なんとやらのメモをとることが多い。すなわち、衣食住の根幹を支えているのが、このメモのたぐいであり、夕飯のメニューを早朝のうちに書き記しておかないと、いざ夕飯のために何をスーパーで買えばいいのかすっかり困ってしまうのである。メモに魂があり、働く肉体の方は、メモ魔の傀儡にすぎないともいえる。そんな冗談はさておき、いずれにしても、メモを喰いながら暮らしているようなものであるというのは、確かなのだ。
衣食住以外で、とくに文筆のために書いたメモなどは、それこそ必要不可欠なものであり、これが無かったとしたら、私はまるで嘘っぱちのでまかせな文章をウェブ上に撒き散らしていることになる。つまり、大方、メモというのは、ある種の事実性に基づいた記録の断片でなければならず、そういう暗黙の条件が、少なくとも私の中には確固としてある。
ところで、ボールペンで記された自筆の乱雑なメモ以外に、切り取った新聞記事の断片であるとか、パソコンの中にはそれこそ、厖大なメモ――Evernoteに打ち込んだ文字、スクショされた画像、自作予定の曲名のメモ、手書きしたメモのスクショ――がハードディスク内に保管されていたりする。これが永らく放置されているので、インデックスによる一種の景観ともいえ、これらのおよそ半分程度は、当該テクストの糸口となる資料として用いられ、用いられた後はおおむね削除する。
資料として用いられなかった残りの半分のメモは、月日が経ち、その賞味期限が切れ、使用意図を忘れて不明なゴミ同然となってしまう。
そうなると、それらは単なるハードディスクの容量を食うだけの無駄なファイルとなり、データとして残っている意義は無いにせよ、記憶の因果としては濃厚で、まるで霊体然として浮遊霊か背後霊のように、パソコンの中をうろうろしているだけなのである。
こうした無益となったメモ群は、“remnants of a defeated army”そのものであり、まことに哲学的なのであった。
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【愛ちゃんが愛ちゃんでなくなった瞬間が悲しかったよネ】 |
たたき込まれた実務として
そもそも、昔からメモ魔だったわけではなく、「ある時」に教えられたのだった。
「ある時」とは、昔、専門学校(千代田工科芸術専門学校)のとある講義の講師が、態度として教えてくれたのである(「ある講義の話」参照)。新聞の切れ端のコピーを学生に配り、気になったところの文章や言葉を自分なりにメモせよ――。メモして残された文章や言葉は、不思議と頭にこびりつくのだった。それがなんとも快感であった。
きっかけはそんなところではあるが、それ以来、ことさらメモする習慣が身に付いて、メモ帳のたぐいのツールは、私にとって必要不可欠なものとなっていった。――なんだ、学生時代の頃の話なんだから、昔からメモ魔といえるじゃないか――という事なかれ。私にとって20代そこそこの学生時代なんて、そんなに昔とは思っちゃいないんです――と嘯いておくことにする。
メモの一部を記す
「リトミックについて調べよ」――。「カルサヴィナについて調べよ。カリガリ博士の映画」――というメモがEvernoteに残っている。しかし、もはやこのメモの意図すら忘れている。
「テギョン」とだけ書いてあるメモもあった。
自作の曲名に関するメモでは、「求めやすい花 Flowers that are easy to love」などとあって、何に関するテーマだったか憶えていない。
アーサー・エドワード・ウェイト(Arthur Edward Waite)のWikipediaのテクスト写しもあった。これについては、メモを残した意図を、なんとなく頭の中でまだ理解している(というか、これはまだ賞味期限切れとはいえないので、ここでは明かせない)。
「土方巽と暗黒舞踏」と記された手書きのメモ(7年くらい前に書いたもの)のスクショには、「ジャン・ジュネ、天児牛大、ミショー、バタイユ、身体の不調という観点から」などという言葉も付してあって、おそらく暗黒舞踏関連のなんらかのテクストに使われなかった、未消化のメモであろうことは察している。
――というように、使われなかったメモをいちいち列挙していては、キリがない。厖大なメモの氷山の一角の、あくまで例として、挙げたまでである。
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【江宏傑さんも、なぜだか頑張る】 |
スクショのメモ
ゴシップ記事のスクショは、残した当初からその使用意図が曖昧である。
というか曖昧になりやすい。尤も、何かのヒントに役立てれば、という意図はあったはずなのだが、ゴシップは揮発性が高いので、すぐに流用されなければ、残したスクショは値打ちが大振りに下がっていく。
昨年保存しておいたネット上のニュースのスクショの中に、福原愛さんのゴシップ記事があった。離婚した元夫の江宏傑さんのスクショも対になっていたが、彼らのニュースとしての不可分な組み合わせ自体が、不名誉であることは頷ける。それはそうとして、もはや不可逆な関係の彼らのゴシップを、なんのテクストの引用のために残す必要があったか――を自分に問うと、はて、当人の私ですら皆目見当が及んでいない。
元テレ朝のアナウンサーだった富川悠太さんが昨年の春、トヨタ自動車の“所属ジャーナリスト”になった云々のニュースのスクショもあった。なんとなく、これからの自動車産業が活発化するのではないかという淡い期待があってのスクショ残しだったのではないか。
近頃では、アナウンサーの他業界への流動化(退社して転職する)の兆しが顕著で、元TBSアナウンサーの国山ハセン(@hasenkuniyama)さんが、スタートアップ企業のPIVOTで、映像プロデューサーとして活動する旨のニュースは、ここにおいてはまだ生々しい。テレビ業界はいつの時代も常に流動的で話題を呼ぶ傾向がある。
その一方で、私の使っているパソコンのハードディスク内にひっそりと保存されていた、ガーシー(東谷義和議員)のスクショなんていうのは、ほとんど無用の長物にすぎない。世間を掻き乱すスキャンダラスな話題が、金を呼ぶという醜悪を身につけてしまった有名人は、それこそ過去にも多くいた。どの方々も末路は悲惨であったが――。
ちなみに昨年、読売ジャイアンツの坂本勇人選手の、元交際相手に対する女性差別的な酷いレスポンスがたいへん話題となったが、スクショしていたはずのこれらの断片は、いつの間にか消えていたのが不思議だ(この表現の暗喩については、注意が必要。坂本選手の諸言動を私が容認してスキャンダルを蒸し返す必要がないと思った――からではない。念のため。あくまで別の事由)。
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【やはり犬顔の富川悠太さんも、頑張る】 |
切り取った新聞記事
一昨年前の11月、ryuchell(りゅうちぇる)さんの新聞記事をスクラップにしておいたのも、ジェンダー関連のテクストを書くためであった。それ以外にryuchellさんの雑誌の記事なども残していたりした。しかし、ご本人の立ち位置が、ここ数年で劇的に変わったので、過去のそうした記事内容が扱えなくなり、ボツとしたことがあった。これは賞味期限切れというたぐいの話ではない。
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【朝日新聞記事の「『じゃない選択』田舎移住」】 |
2023年1月10日付朝日新聞朝刊の記事「『じゃない選択』田舎移住」も切り取っている。これの記事を書いた記者は興野優平氏。個人個人の「よりどころ」がテーマとなっていて、たいへん興味をそそられた。鳥取の用瀬町で「もちがせ週末住人」というコミュニティーがある。それにひかれて移り住んだという明大出身の深沢あゆみさんの話。学生のワーキングホリデーやゼミ合宿を「もちがせ週末住人の家」が受け入れているのだという。
これを6年前に立ち上げた鳥取環境大出身の松浦生(いくる)さんの話も興味深かった。「成長しない株式会社」。「じゃない選択肢」――。中国地方の過疎地に、過剰に消費する社会と無縁のソーシャルなネットワークをつくる試みがおこなわれている。
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こうしたメモを参照していくと、それが個人的に言語化できず未消化であったり、あるいは賞味期限切れのトピックであろうがなかろうが、どこに関心があったか、何に眼差しをもたらしていたかの痕跡として、透けて見えてくるものがあるのではないか。そしてこうしてあえて、メモ魔の内容の一部分をさらけ出すことも、それなりに意図があるのだ。
インターネット依存社会で大切なことは、身体性と切り離すことのできない不条理な世の中に、着目していくこと、向き合っていくこと。決して身体を離れて、ネット社会に与することはできない。もし、そうした言説――身体を離脱してネット社会に与する仕組みの構築――がどこかにあるのなら、それは全くの虚妄にすぎないであろう。
情報に触れた身体が、何を感じ取るのか。いま、これから、自分がやろうとしていることは、一見世捨て人的な、仮構の掘っ立て小屋の独り言、戯言のように思えても、実はとても生き抜くために必要な叡智なのではないか――。
そういう「虚栄心ではない部分」の力業だと、メモ魔の私は信じている。それはいったいどういうことなのだろうか。今後の[Utaro Notes]あるいはホームページやツイッターでの諸処の言説に期待あれ。おわり。
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【これはのけぞりました。スキャンダラスな逆さま文字】 |
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おっと、忘れていた。
滝沢秀明さんの、ツイッターの初お目見えの時のツイート(2022年11月8日)が、たいへん話題を呼んだ。このトチリのセンスこそが、インターネット的な不完全な形を、ものの見事に具象化していて際どかった。例の、逆さま画像挨拶文である。
《時間、時代がただただ流れていってしまわぬ様に
平等に与えられた未来という場所で
僕ら人間が夢を見るだけでなく掴む為に
たったそれだけの事。
一個人ではありますが、皆様引き続き宜しくお願いします。
滝沢秀明》
平等に与えられた未来という場所で
僕ら人間が夢を見るだけでなく掴む為に
たったそれだけの事。
一個人ではありますが、皆様引き続き宜しくお願いします。
滝沢秀明》
何と表していいのか、旨い日本語が見つからずに、自分の今の状態を指し示す端的な表現が思いつかないので、致し方なく、私の今の心理状態を「バグる世界」――としてみた。バグった挙げ句に、新しい光が見えてきた――ということも付け加えておきたい。私はそう解釈する。
時間の観念と、自己を含めた物事を受け止める観念とが、ガラッと変わった――ことを意味するのである。壮年期真っ只中であるということが、いい意味でのショックであったに違いない。大いに刺戟になった。おわり。
追記:第2弾の「再びバグる世界」はこちら。
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