小学4年生だったか、学校の砂場で砂遊びに大変夢中になったことがあった。友達と一緒にエッサホイサと砂を盛り上げ、片方にとんでもない高さの砂山ができ、もう片方は地べたを掘りすぎたせいで、とんでもない穴ぼこができてしまった。
すると、どなたかスポーツウェア姿の先生が見にやってこられて、「こら! 何をやってるんだ! お前たちはドケン屋か!」といって私と友達を怒鳴りつけたのだった。私たちはしゅんとしてしまった。だが、にわかにこっそりと、友達がいうのである。
「ドケン屋じゃなくて、サカン屋じゃね?」
なにかにつけ、“盛り”が過ぎると、非日常化して怪訝な思いをする――。そんな少年時代の善き思い出であるが、最近、ユニクロのパンツを穿き始めて、あれれ? と思ったのである。
“盛り”がここにもあらわれたよぉぉ。
大盛り一丁
そもそも、私のユニクロのアンダーウェアに対する固定観念は、こういうことだった。老若男女、誰でも彼でも気軽に着こなせる、安くて中庸な肌着――。今でもその観念は変わっていない。ユニクロのカジュアルは、誰しも生活の中の善き友であるに違いない。
私が穿いたのは、紅いコットン生地のボクサーブリーフだった。穿き心地もいい。〈これなら“普段穿き”できる、なんてことはないさ〉…。
ところが、鏡で眺めてみると、意外なほど、アレが“盛って”いるように見えたのだった。つまり、露骨にいわせてもらうと、アレのもっこりの度合いが、思いがけず明瞭なのである。
あれれ?
ユニクロのパンツを買う男の人って、あんまりセクシーなスタイルを好まない、“普段穿き”を好む人が多いのではないかと思っていたのだが、けっこう“盛る”――という鮮やかな発見があり、ここ最近の、いろいろなパンツを穿いてきた経験を通じて、それまで気がつかなかったであろうパンツの構造の、微細の差異までが直感的にわかってくるかのようで、なかなか独りでこれを面白がっている。
ユニクロさんも、わざわざそんなからくりのセクシー下着にしようとは、毛頭考えていないはずだ。いわば中庸な肌着を目指そうと、生地にしても、あるいは縫製上の構造にしても、きわめて綿密なコンセプトをもとに設計せしめた結果、その結果としてですね、いやいやいや、大きな声では決していえないが、一つの弱点に気づいたのではないか。このパンツの構造は、意外と明瞭に“盛る”のだと――。
まあ、ラーメン屋さんでついつい“大盛り”を注文してしまうのと同じくらいに、別段大した話ではなかろう。大した話ではないが、こうした様々なメーカーのパンツを紹介する中で、知らず知らずアレが“大盛り”に化けてしまったりするのは、いかにも男性下着特有のパラレルワールドだといえよう。
まいにちパンツをとりかえましょう
しつこいようだが、もう一つ私は、つい買ってきた書籍をどんどん高く積み上げて、“盛って”しまう悪い癖がある。
元来私の前世は、サカン屋なのかもしれなかった。ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)のいくつかの文庫本、その上に読みかけのシルヴィア・ビーチ(Sylvia Beach)の『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』の本、それからその上に、米原万里さんの本が“盛って”あったりする。
米原さんの『パンツの面目ふんどしの沽券』(ちくま文庫)は、パンツ論の名著として名高く、とくに日本人の、近現代における下着に対する感覚と思考が、“てんこ盛り”となっていて、なにげに読むと楽しい。
幼稚園の洗い場に、「よいこの よっつの おやくそく」というのが貼り出されていて、その4番目が、《まいにちパンツを とりかえましょう》となっていた――。米原さんの、善き思い出話である。
どんな思い出話?
それは至極単純なことで、米原さんにしてみれば、パンツを「毎日とりかえる」ことに、ひどく驚きを持たれたようなのだ。《パンツは毎日はきかえるべきものである》という《確固たる大原則》に、泡を食った。打ち立てる仮説として、いわばこれは、日本人特有の潔癖性からくる基本原則なのではないか、という素朴なトピックなのであった。
とはいえ私は、おそらくその仮説には、同意し得ないだろうということを、既に認知してしまっている。なにも、日本人が潔癖性すぎて考えついたことではない。その幼稚園が、洋式の科学を取り入れていただけのことだ。ここからは、下着にまつわる衛生の話をしていきたい。
『新しいほけん』の衛生学習
令和3年2月に発行された、東京書籍の小学校用教科書『新しいほけん 3・4』を見ると、その1章は「けんこうな生活」と題されて、《けんこうとは、元気がある、気分がよい、ぐあいの悪いところがないなど、心や体の調子がよいじょうたい》と、健康について示されている。つまり健康とは、《毎日を元気に楽しくすごす》ことができる、ヒトの基礎的な状態を指していると思われる。
「けんこう」ですごすためには、「運動」「食事」「休養・すいみん」「体のせいけつ」が大事であり、そのほかに「けんこう」のためのかんきょうをととのえることとして(※教科書の表現に準じているので、ひらがなが長く並ぶ)、「空気の入れかえ」と「明るさの調節」が挙げられる。
そのうちの、「体のせいけつ」に注目したい。
「体のせいけつ」を保つためには、「食事の前にせっけんで手をあらう」「食後に歯みがきをする」「ふろで体や頭をあらう」などが挙げられ、ここにもう一つ肝心な、「毎日、下着を取りかえる」が課せられている。
ほらね! これが洋式の科学!
「けんこう」で毎日すごすため、「体のせいけつ」は必要不可欠であり、それを毎日維持するためには、効率よく、下着やタオルなども毎日洗うべきものだという論理が成り立つ。
ファン・デ・フェルデの「性器の手入れと清潔」
1926年に、オランダの産婦人科専攻の医学博士テオドール・ヘンドリック・ファン・デ・フェルデ(Theodor Hendrik van de Velde)氏が執筆した“DIE VOLLKOMMENE EHE”という専門書が出版されている。日本版では、『完全なる結婚』(安田一郎訳/河出書房新社)というタイトルになっている。
この本では、結婚における男女の生理学とそのテクニック(性交渉)が仔細に記されている。第四部の「完全なる結婚の衛生学」に第16章「肉体衛生」があり、そこに「性器の手入れと清潔」が記されている。
その冒頭で、ファン・デ・フェルデ氏は、《清潔にすることはとりわけ難しい。というのは、性器の溝とひだは手入れがしにくいからである》と解説し、性器の手入れがしにくいというほかに、分泌される皮脂の塊はとるのが必ずしも容易ではないと述べ、この部位を繰り返し清潔にすることは、確実に住みついている腐敗菌を除去する目的をもっている――と括る。これが、本来的に性器を手入れする(=清潔にする)理由ということになる。
以下、ファン・デ・フェルデ氏が示した性器の手入れ法を要約し、列記してみたので読んでいただきたい。
男性に対して
通常の洗浄と入浴以外でやってほしいこと。
- 朝と夕方、包皮を完全に引いて亀頭、包皮の内側とくに亀頭溝を清潔にすること。清潔な水でぬらした綿球できれいにする。
- 下着は尿の残りで濡れないようにする。濡れたら、取り替える。そうでなくとも、しばしば取り替える。パジャマ類も同じ。
- 放尿後、残りのしずくを濡れた綿球で拭ってとることをすすめる。
- 性交後、ペニスは洗い、亀頭をすみずみまできれいにする。
- 性交後に性器が発赤やかゆみなどの刺激状態にあるなら、すみずみまで清潔にし、しめりを拭いとり、薄くパウダーを散布する。
女性に対して
通常の洗浄と入浴以外でやってほしいこと。
- クリトリスと小陰唇の近くのひだと隅を念頭に、朝夕、陰門をビデと清潔な綿球でぬるま湯できれいに洗う。そのあと、こすらない程度に清潔なタオルで拭う。
- できるだけ毎日、排尿後の残りを軽く洗う。ビデと綿球を使ってぬるま湯もしくは冷水で洗う。
- 排便後の肛門を完全にきれいにする。良質のトイレットペーパーで大きな汚物をとる。前から後ろに拭くこと。会陰は清潔にしなければならない。陰門を綿球できれいにする。
- 残尿や残便、またあらゆる分泌物で下着を汚さないようにすること。汚れたら取り替える。パジャマ類も同じ。そうでなくとも、下着はしばしば取り替える。
- 月経中はとくに清潔にする。ナプキンは頻繁に取り替える。1日1回は下着を取り替える。2回はもっといい。
- 性交後、陰門をぬるま湯ですみずみまで清潔にする。
- 性交後、あるいは月経、分泌物のために刺激状態にあるときは清潔にし、しめりを拭いとり、パウダーを散布する。回復するまで刺激を与えないようにする。
- 膣は洗浄してはならない。膣には自浄作用があるから。
以上に加え、男女共、「羊毛の下着は駄目」。「性器はきれいな手でさわること」も付しておく。
§
小学4年生で習う、「けんこう」と「体のせいけつ」における「毎日、下着を取りかえる」の理由は、以上のファン・デ・フェルデ氏が述べているような科学的な理由によってである。
米原さんの幼稚園時代の《まいにちパンツを とりかえましょう》も、オランダの医学博士の指導を日本人がどうにかこうにか咀嚼して、指導してきたものと考えていい。
次回の「人新世のパンツ論」では、昭和50年代の“日本男児”崩壊論的な話を綴っていきたい。
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