前回の危険な雰囲気から逃れて、今回の「人新世のパンツ論」は、平易な地平の、日常的な趣に心を溶かし込みたい。パンツの身だしなみとおしゃれを追求するテーマである。
こうした私の素朴な試みを応援してくれる友は、文芸の中にこそあった。朝日新聞の「折々のことば」に、歌人斎藤史(ふみ)の歌が記されていた。
《咲くとはいのち曝しきること》
人々が小さな幸せを求め、人と人との交際の中で情にふれあうこと。
これすなわち「咲く」ということなのだろうか。ならばそれは、いのち「曝しきる」こと。それを知ったうえで、なお本当のいのちが始まる気がしてならないのだ。
人生とはなんと奥深いものか。パンツとはなんと深いものか。鋭気を養うことばに出合えた。
ジャスティン・ビーバーさんの腰パン
パンツを穿いている姿が真にかっこいいと思える人。美しくそれを着こなしている人。またそれを啓蒙し、こよなくパンツを愛している人。
そんなふうにパンツのことを理解している人を知る機会は、なかなか少ないものだ。
しかし私は、彼を尊敬している。愛している。
畏れ多くも、彼は世界の“パンツ王子”――と称してかまわないのであれば、私はそう呼ぶだろう。ジャスティン・ビーバー(Justin Bieber)さんのことである。
ジャスティン・ビーバーさんのインスタ投稿画像のけっこうな数において、私はそれを目撃している。
いや、世界中の人々がそれを凝らして見ている。つまり、彼が海辺ではしゃぐ姿、プールサイドで遊んでいる姿、そうしたオフオフ感丸出しの画像の数々――。
ビーバーさんはまるで子どものように戯れる。なんと表現すればいいか、Water Angel(水の天使)かWater Fairy(水の妖精)のようでもある。
殆どの場合、彼は腰パンなのである。そのうち、水と戯れているのが楽しいのか、腰パンをさらすのが面白いのか、見ていてわからなくなってくる。そんな彼の姿を、どれだけ多く見てきただろうか。
まさに彼は、正真正銘、“パンツ王子”なのだ。彼が穿きこなすブランドは、おおむねお墨付きのカルバン・クライン(Calvin Klein)である。そして多くの若者が腰パンである時、おそらくその半数以上が、カルバン・クラインなのではないか。(プチ伝説をここに挟み込むけれど、2023年のカルバン・クラインの広告キャンペーンでは、BTSのジョングクさんもなかなか鮮烈であった。)
腰パンを愛せよ
そう、そのとおり。腰パンを愛せよ、といいたい。
腰パンは、Sagging(Saggy Pants)のこと。
外着(表着)であるボトムスのズボンやパンツを骨盤の腸骨の低い位置に穿き、インナー(パンツ)のゴム帯部分などが見えている状態を指す(「人新世のパンツ論②―パンツは世界を掌握する」)。
私の昭和の学生時代に、こんな格好をして校内を歩いていたら、ほぼ確実に学年主任に声をかけられ、怒られただろう。ちなみに、骨盤の低い位置にかかわらず、腰回りからインナーが見える状態を総じて腰パンと称してかまわないのではないかと私は思う。
ビーバーさんの腰パンは、本当にかっこいい。これこそ斎藤史の《咲くとはいのち曝しきること》の体現ではないか。
人がありのままの自分であることをさらけ出すのは、なかなかできそうでできないものである。日本人はとかく、「世間体」を気にする。
世間というか周囲の人たちが「私をどう見ているのか」とか、「私はどう見られているのだろうか」と気にしすぎる傾向がある。ビーバーさんの場合は、自分は自分なんだよ、という達観から、パンツをさらし、お尻もさらしたりしている。そうして既に、自然体の“あけっぴろげ”なのであり、いわば禅の思想に近い。それがかえってかっこいいのだ。
以前私は、「ハミパンはだめよ」派に同調していた(「赤いパンツの話〈二〉」)。場所をわきまえて、“紳士的”であれ、というポリシーだった。しかし今となっては、“紳士的”という固定観念ですら、旧態であると思うことが少なくない。
私のビーバーさんへの憧れは、自分が若い頃に腰パンをして出歩いたことが無かったからだ。ファッション感覚はもとより、あらゆる文化的な営みの開放感に対し、あまりにも鈍感すぎた少年・青年時代であった。
高校時代はトレパン派だ。したがって、太腿部分からインナーのトランクスがはみ出して見えている格好悪さというものを、今になってようやく“健全な少年”であった――と思えるのである。それはかろうじて、という注釈がつくのだけれど、腰パンではなかったが、“ももパン”であったりして自然体だった、ということで結局、心の健やかさは保たれていたのではないかと、信じている。
§
パンツのおしゃれという点では、もうこれ以上、論述する必要はないのだ。結論を述べる。
「人新世のパンツ論」の最たる要諦は、腰パンの風流を指す。そういいきってしまってかまわないだろう。形だけではなく、心からの腰パン。こうなったら、“ももパン”でもいい。心のネジを、少し緩めた状態が人生にとってちょうどいい。
自分を格好良くキメすぎ、どうだ? かっこいいだろ? と他者に自慢したくなる心持ちは抑えて、自分のパンツを少しだけさらけ出して一歩引き、他者への思いに心を傾ける。預ける。
そうすれば、優しい心が生まれ、人とのつながりの中でお互いに安寧を築こうとする柔らかい心が生まれるだろう。それが、日常を願う心持ちとなり、日々の努めとしても充実するはずだ。
パンツの身だしなみとおしゃれにおいて、おしゃれの真髄とは、格好つけることではないのだ。
己を偽ることなく、ちらりと弱さをさらけ出すこと。
その意味で、腰パンの様態が、健全な自分を指し示している。ありのままであるということ。自然体であるということ。さりげなくパンツが見えているのは、風流である。それをしまうな。お互いに気にするな、といいたい。
こうした私の持論及び見解に、無理矢理にでも同意していただきたいのである。
なんて素敵なステテコなんでしょう
男性が着こなす、夏向きの定番アイテムといえば、ステテコ以外にない――。ステテコを愛さない男性はこの世にいない。
もし恋人のあなたが、彼氏のステテコ姿をまだ見ていないのであれば、ぜひ想像してみてほしい。
彼は、家の中でステテコを穿いている。それはほとんど、本当のことだ。でも、素敵なことではないか。
あなたもぜひ、一緒にステテコを穿いて、夜をすごしてほしい。ステテコを着こなす女性も、また美しいと思う。ところでステテコとは、
ひざの下まである、ゆったりした、男性用のズボン下(・部屋着)。
三省堂『現代新国語辞典』第七版より引用
ステテコという呼称は、昔の、こっけいな踊りの、はやし言葉から――とも、その辞典にあった。ぶっちゃけステテコは、ロングトランクスのことだ。
その昔は、その姿がいわば夏の風物詩であった。
私が子どもの頃に、大人たちが穿いていたステテコのほとんどは、綿や麻の、白無地のステテコだった。むろん、今でもそれはポピュラーでスタンダードといえるステテコだ。
夏のある日、「やーやーやあ」といって、お客さんが家にやってきた。
白シャツにステテコ姿の父は、その知り合いの客人を座敷に招き入れた。客人は、Yシャツを着た軽装の、白髪交じりの男の人であった。
母が台所から出てきて挨拶をし、麦茶の入ったガラスコップを差し出した。
「まあ、今日は、ご苦労さまです」
相手の客人が、親戚の人なのか父の友人なのか、よくわからなかった。にこやかな顔で笑い声を上げ、会話が弾んだ。
そのうち、母が台所から冷麦を盛った大皿を持ってきて差し出した。会話はいったん静まって、父と客人と母は、せっせと箸をつついて冷麦を食べ始めた。白い麺を喉に流し込んでいる。チュルチュルチュルっと音が聞こえる。
網戸の外から、チンチロリンと南部風鈴が鳴った。ミーンミーンとセミも鳴く。父は涼し気なステテコ姿である。
――こんな有り様の、ささやかな光景が、私にとってひどく懐かしいのだ。となりの部屋で学習机に座り、コロタン文庫の“ドラえもん”の本を読んでいた。藤子不二雄両氏のベレー帽とメガネ姿が、目に焼き付いている。そんな昭和50年代の夏の思い出である。
§
さーさ、なんて素敵なステテコなんでしょう、と大声で3回唱えてみてほしい。
何度もいう。男の人は、ステテコが大好きだ。
今やステテコは復権し、モダンなデザインのステテコ商品が多く店頭に並んでいる。和風の柄模様あり、金魚あり、イルカあり、トンボあり…。デザインは昔と違ってカラフルで艶やかになり、枚挙にいとまがない。むろん若者にも絶大な人気がある。
気づけば私は、この部屋着として穿いているステテコが、一番の腰パンになっているのだった。
お腹を見れば、腰パンだ。パンツが見えている。いい感じだ。風流だ。これぞ現代の夏の風物詩――といいたい。よろしいでしょ? ステテコを愛しても?
寺山修司のステテコ論
かつて60年代に演劇実験室「天井桟敷」を設立した作家の寺山修司は、『書を捨てよ、町へ出よう』の「不良少年入門」の章で、ステテコをはくべし――と述べている。
事前に断っておくと、彼がいっているステテコは、昭和のあの白無地のステテコのことだ。私の父が、ステテコを穿いて客人と一緒に冷麦を食べていた、あの時のようなステテコを指している。
寺山氏は、なぜ、ステテコをはくべし――といったのか。
彼が述べている文脈を察すると、たぶんこういうことになるのだろう。
世の中、なんだかんだとモテてしまう若者男子がいる。今でいうイケメンだ。美男子、美少年のたぐい。脚がスラリと長くて細く、常に女の子がぺたりとついているキュートなボーイ。
何もしていなくても、いつも女の子がぺたりとついている。寺山氏は、そんな男の子をプレイボーイといっている。プレイボーイは喫茶店に行ったり、ゲームセンターに行ったり、テニスをしたり、ディスコに行ったり、ふらふらしていても、取っ替え引っ替え女の子がいつもぺたりとついている。
プレイボーイは結局、女の子といちゃつく忙しさのあまり、自分の“自由な時間”がほとんど無いのだった。トイレに行く時間も無い。独りでコーヒーを飲んで、新聞を読む時間も、漫画を読む時間も無い。ジャズを聴く時間も無い。鏡に顔を映して、鼻毛を抜く時間も無いのだ。
そんなことだから当然、金も無くなるだろう。だから若者男子は、プレイボーイなんかなるもんじゃない、辞退しなければならないと寺山氏は暗にいう。しかし、どうすればプレイボーイにならないで済むのか。
ステテコをはくべし――。???
素敵なステテコが、キミを守ってくれるのだそうだ。ステテコを穿いて、「一点豪華主義」になれと。
「一点豪華主義」。
ステテコを穿いて、スピットファイアやムスタングを運転する。三畳半のアパートに住んで、ヒレ肉のステーキを食う。そういうギャップ。これが「一点豪華主義」。全てを豪奢に着飾る生活をやめて、一点だけ豪華さを決め込めと――。ステテコは、そのアンバランスのステータスシンボルなのだという。
ハーレムパンツとシャルワール
日本人の男性は、家の縁側にて、そうめん冷麦にステテコ、スイカをほおばってステテコ、将棋や囲碁に夢中になってステテコ――だった。もちろん片手にうちわ。そのうち浴衣姿の近所の女の子がやってきて、「おじさん、花火見に行きましょ」と誘う。
若い子からすれば、ステテコ姿は、オジサンやオジイチャンの代名詞的アイテムであった。今は違う。気軽に穿けて涼しいロングトランクス。ステテコの人気は、若者にも波及した。そのことは先に述べた。
日本ではステテコである。が、薄い生地のロングトランクスは、旧時代の国々で広く愛されていたのだった。そのひとつ、ステテコによく似たボトムスに、エスニックな表着のハーレムパンツというのがある。
ハーレムパンツ。これがまたおしゃれでいい。
股下から足首まで延びた生地がたっぷりめでダボッとしていて、ベリーダンスの衣装でもある。アラジンパンツとも、サルエルパンツともいう。
ここでピンとくる方はいるだろう。ヒップホップの界隈から腰パンが覚醒していったのを思い起こせば、彼らが穿いているズボンこそ、ハーレムパンツではなかったか。ただしそれは、彼らがヒップホップの衣装として着ていたわけではないことは、誤解がないようにしたい。
ハーレムパンツに似たズボンとしては、ダボッとして足の運動を妨げない点で、よく工事現場で若い人が穿いていたりするのを見たことがあるだろう。あれはハーレムパンツではなく、ニッカポッカである。しかし、その形状はほとんど同じで、ニッカポッカは作業着、ハーレムパンツも踊る際の作業着と考えれば、もともとの出どころは同じ、と考えていいのではないか。
ニッカポッカは男性が穿く作業着。女性が穿く作業着はもんぺ。これもダボッとしていて何かしら作業がしやすいロングトランクスということで、いわば兄弟姉妹のようなものである。
ロシア語の通訳に従事し作家であった米原万里氏の『パンツの面目ふんどしの沽券』(ちくま文庫)には、ハーレムパンツのことが記されている。
といっても、現代のファッション化したハーレムパンツのことではなく、その原型(あるいはズボンそのものの原型)のシャルワール(shalwār)のことで、サルワール・カミーズという表記の方が、一般的に浸透しているか。
米原氏が『世界大百科事典』(平凡社)で調べたのを孫引きすると、シャルワールは、《北アフリカらトルコ、イラン、中央アジア、パキスタン、インド、アフガニスタンまでイスラム文化圏で男女ともに着用するズボン》で、《胴回りが二~六mと広く、足首までおおう長さをもつが、股下の短いのが特徴》とあり、《もとの形は横長の袋状で裾の両端に足首が出るだけの穴を開け、胴回りに通したひもを絞って着用》。
サン=テグジュペリの『星の王子さま』にも挿絵で出てくるようなシャルワールのズボンを、なんとKGBの前身のなんたらかんたらという組織の制服でさえ、どうやらシャルワールだった――というエピソードを述べていて、まことに面白い。
しかも、米原氏は学生時代に、民族舞踊研究会でコサックダンス(ウクライナのホパークのこと)の衣装を縫っていた――という経歴には驚きだ。
シャルワールのズボンがやがて洗練していってハーレムパンツと称され、それが世界に広まったということはどうやら確かである。片やダンスの衣装、片や日本では作業着としてニッカポッカやもんぺのようなものに化けて、いや変容して、活用されるようになった、ということになるわけである。その時代の先端にあるのが、ステテコなのだ。
§
もはや、いうに及ばず、ステテコやハーレムパンツは、腰パン様態のおしゃれアイテムとして着こなせそうである。その理解を広めたいところである。
カルバン・クラインでもいいが、そうでなくてもいい。そう、B.V.D.だろうとなんだろうと。
NIKEのシューズを履け。そして軽やかに、ステテコを穿くのだ。腰パンのパンツは、グンゼがよろしいか。いや、なんでもいい。「一点豪華主義」だ。寺山氏のステテコ論が神のようにちらつく。
ビーバーさんをよく見てほしい。よき家庭人にしろ、よき“パンツ王子”にしろ、パンツが少し見えているというのは、人新世のユマニスムへの示唆であり、やみくもに生成したがる、現代人の「生成AI嗜好」に対する警鐘でもあるのだ。
はい、もう何もいうことはございません。
実をいいますと、次回の「人新世のパンツ論」は、最終回なのです。
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