ニコラス・レイあちらこちら

 興奮冷めやらぬまま――。
 アメリカ大統領選でトランプ氏が返り咲いた一報が届いたが、そんなことで私が興奮していたのではない。
 しかと心得て遠距離恋愛を構えるのなら、人生の全てをかけた壮絶な未来の路々を切り開く以外にないのだ。そうした覚悟の想起と、それにふさわしい名画への郷愁――。
 映画『夜の人々』(“They Live by Night”)を今宵、観たのだった。
 こう書けば、まだ字面を追うことに不慣れで読書感覚がおぼつかない未熟なる若者の心を、うまく誤魔化せられるだろう。私が今、何を呟いたか、はっきりと理解できていないに違いない。いや、それでいいのである。

ニコラス・レイあちらこちら

 今宵、観た――と書いたが、映画『夜の人々』は、1948年のアメリカ映画。ニコラス・レイ(Nicholas Ray)の初めての監督作品である。ニコラス・レイは、ジェームズ・ディーン(James Dean)主演の『理由なき反抗』(“Rebel Without a Cause”/1955年)で知られる名監督であり、大作としては彼の最後の作品ということになっている『北京の五十五日』(“55 Days at Peking”/1963年)については、当ブログで既にふれている(「伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』と北京籠城」)。

 ここでかなり蛇足になる話を挟んでおきたい。
 伊丹十三氏の『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫)では、『北京の五十五日』の撮影によりかかる出演者の伊丹氏と、監督であるレイとのやりとりが記されていてなかなか軽妙である。私がふと気づいたのは、「マドリッドの北京」の中のこの文面。ロンドンで衣装合わせをした日の夜、《今度の映画のキャスティング・ディレクターである婦人と「アンバセダー」で晩餐》とある。

 キャスティング・ディレクターというのは、その映画の配役を任され、プロデューサーや監督、そして俳優やその所属事務所なりとの交渉もしくは仲介の責務を負う仕事――というふうに理解している。
 これは、作家と出版社のあいだを取り持つリテラリー・エージェント(literary agent)の仕事とやや似ている気がする。ただしこちらは、著作権(者)の代理人という主旨があり、そこの点でやや違う面があるのだけれど、最近のことかどうか知らないが、キャスティング・ディレクターというと、クライアントのアパレル系ブランドなどにおいて、その価値や存在感をあらゆる角度で発揮しつつ、世の中に広めていくインフルエンサー的な代理人の仕事を指す場合もあって、私としてはわけがわからなくなる。

 ディレクターかエージェントか…。

 伊丹氏との晩餐でその婦人は好みのアスパラガスを食したようだが、そうした醍醐味――ダイナミックな食欲の燃焼を兼ねた懇談であっただろう――は、可愛らしい花柄のリボンを備えたハットや華奢なブランドのバッグのインフルエンサーには似つかわしくないことだけははっきりしている。

 伊丹氏の話はこれくらいにして、『小説新潮』臨時増刊『アメリカ青春小説特集』(新潮社/1989年刊)の畑中佳樹氏のコラム「不慣れであることは、美しい」に目を通したい。
 ちなみに翻訳家である畑中氏の翻訳本のうち、私が刮目しているのは、サム・シェパード(Sam Shepard)の『モーテル・クロニクルズ』(“Motel Chronicles”/筑摩書房)であるが、ここでの話はあくまで「不慣れであることは、美しい」における映画『夜の人々』に集中したい。

『夜の人々』の不慣れな若者たち

 ニコラス・レイの映画に登場する若い男女は、《目がヒリヒリと痛むようなハラハラ――ことばで誤魔化してしまうなら存在論的なハラハラ》を瞳に覚える、というのであった。レイの映画に登場する若い男女は、慣れていない、不慣れである、と畑中氏は申している。
 『夜の人々』でその若い男女を演じたファーリー・グレンジャー(Farley Granger)とキャシー・オドネル(Cathy O’Donnell)がまさにそうだ、といっていい。

 ファーリー・グレンジャーの場合、それが演技なのか地なのか、おそらくそのどちらでもあるのだろう。役の青年ボウイは不憫な生い立ちで、銀行強盗をして金を稼ぐ。常に追われる身でもあり、むしろ得体の知れぬなにかに怯え、それがまた、あろうことか初めて出会う娘にも怯えていた。
 やがて二人は深く結ばれるのだが、ボウイもその娘キーチも、背負った不遇を追い払うことなく、互いの人生を新しく塗り替えることもできずに、誰しもが予測可能な終着駅に行き着いたといった感じで映画は閉じられる。さも永久に、不慣れなファーリー・グレンジャーが際立つ映画――という印象を受ける。
 「不慣れであることは、美しい」の本文では、1951年の『危険な場所で』(“On Dangerous Ground”)も同様にして挙げているが、それはともかく畑中氏は最後にこう結んでいる。

慣れている、馴れ馴れしい、狎れあい――みんな醜いことばだ。慣れてしまった人生ほど、けだるいものはない。だが、生きることに慣れていない、いかにも危なっかしい、一個のむき出しの存在のふるえ――初々しいとか、青春とか、そんなことばで言われるのかもしれない、この生の危険感こそ、あの瞳の痛むようなハラハラ――ぼくらの人生を映画に似させる何かではあるまいか。

『アメリカ青春小説特集』畑中佳樹「不慣れであることは、美しい」より引用

 私としても今、これを教訓としたいところなのである。

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