
前回の『フレンジー』から、すぐにお会いできましたね。お元気でしたか?
皆さんの考えはお見通ですよ。ヒッチコックの映画など、基本的には感想を述べないほうが、宜しい。あんたなんて映画批評するタマではない、サスペンスとスリラーの映画なんかは、黙ってそれを観て楽しめばいいのだと。
おっしゃることはよくわかっているが、まあだいたい、ヒッチコックの代表的な映画を語るとすれば、『サイコ』(“Psycho”)だとか『裏窓』(“Rear Window”)、『鳥』(“The Birds”)、『知りすぎていた男』(“The Man Who Knew Too Much”)、『北北西に進路を取れ』(“North by Northwest”)なんかが宜しい。逆にあまり、『農夫の妻』(“The Farmer’s Wife”)だとか『トパーズ』(“Topaz”)などは語らなくてもいいのである。
さんざっぱら何十年とヒッチコック映画を観渡している私からすれば、彼の代表作を語る言葉すら、つらつらと思い浮かばないもので、昨年はようやく『サイコ』について語った。つい先日は、知ってのとおり、『フレンジー』を語った。
ものはついでだから、『ファミリー・プロット』(“Family Plot”)を今ここで語ろうと思う。
アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)監督の『ファミリー・プロット』(1976年)を語る人って、たぶんあんまりいないと思う。タイトルも芳しくない感じで、もっと気の利いた表現はなかったのかと思ってしまう。
一応これを、日本語訳で受け止めるならば、映画の内容からして、“家族の計略”(策略)という意味合いと、“家族墓の一区画”とを掛け合わせたワードということになるだろうか。うーん。それにしても…ぱっとしない。
主演はバーバラ・ハリス(Barbara Harris)、ブルース・ダーン(Bruce Dern)、カレン・ブラック(Karen Black)、ウィリアム・ディヴェイン(William Devane)、キャスリーン・ネスビット(Cathleen Nesbitt)。

家族墓よりもナッシュビル
どこの映画批評のキャスト・クレジットを見ても、カレン・ブラックさんが筆頭になっている。カレンさんには何の悪意もないが、私はこの映画を真っ当に見た判断として、筆頭はバーバラ・ハリスさんだと思う。
ところが、この二人のフィルモグラフィーをたどると、どうしても1975年公開のロバート・アルトマン(Robert Altman)監督の映画『ナッシュビル』(“Nashville”)に行き着いてしまう。このアメリカ映画、日本人にはあまり馴染みがないかもしれない。アルトマン監督の映画では、『M★A★S★H マッシュ』(“M*A*S*H”)がよく知られているが、『ナッシュビル』だって甲乙つけ難い。
ここまでの話、こんな事をいっちゃあ失礼だけれど、日本人の大半の人は、知らないことばかりで飽きてしまっていると思う。というか、着いてこれていないのではないか。
知っているのは、ヒッチコック監督の名くらいで、顔なんて知らないし、『ファミリー・プロット』なんて全然知らない?
そうなりゃ、ハリスさんもカレンさんもブルース・ダーンだって知らないであろう。私だって、『ファミリー・プロット』の話をしようと思った矢先、『ナッシュビル』に寄り道してしまうくらいだ。
“ナッシュビル”なんてタイトル、いっぱいある。
古くて恐縮だが、宮前ユキの「お前とナッシュビル」(1976年)。
ナッシュビルから 手紙を書くよ
俺のただ一人の 女へって
枚挙に暇がない。ピーター&ゴードン(Peter & Gordon)のアルバム『ナッシュビルのピーターとゴードン』(“Sing And Play The Hits of Nashville Tennessee”)。チェリッシュという夫婦デュオのアルバム『ナッシュビル』。森山良子の「イン・ナッシュビル」――。
極めつけは、トレーダー・ジョーズ(Trader Joe’s)の“ナッシュビル”エコバック。これ、音楽じゃなくて、アメリカのスーパーマーケットの日用品なのだけれど、天気の良い日の運動会に最適。お昼のお弁当を包んで持っていくのに。
わかっているはず。通俗的には、“ナッシュビル”って、カントリー・ミュージック(カントリー&ウエスタン)で有名なナッシュビルのこと。そう、アメリカはテネシー州の、その手の音楽の聖地。
私ね、昨年秋だったか、“ウッドストックの映画”を観て、すこぶる感動したのだけれど、それと“ナッシュビル”――じゃなくて、アルトマンの映画の『ナッシュビル』について、音楽モノの映画として、双璧なわけだ。これらについて、そのうち書こうと思っている。それまで、待たれ――。

で、ヒッチコックの『ファミリー・プロット』の話に戻る。
戻るっていったって、語るべき話って、そんなにない。
この映画の肝――というか、私がアルフレッド・ヒッチコックの映画を永年観て学習したのは、サスペンスとかスリラーに係る演出論云々よりも、単に彼=ヒッチコックが作る映画というのは、「仲睦まじい男と女」が主軸にあるということ。「仲睦まじさ」が、人生の最大のテーマなのだということ。
『ファミリー・プロット』を観終わって、何を得たのかと考えたら、結局、それ。「仲睦まじい男と女」。語るべきなのは、それだけ。
だから、あとは、全て蛇足なのである。だいたいね、ヒッチコックの映画批評のついでに、トレーダー・ジョーズの可愛らしいエコバックの話をしちゃう人なんて、いないよ。私だけです、そんなの。
エセでありヘボでありケチであること
ともあれ、なんとかして『ファミリー・プロット』について語りたいのだ。
この映画、実はヒッチコック監督の映画製作における、「50周年」にあたる作品で、53作目だった。しかも残念ながら、この映画が彼の遺作となったのだ。
アメリカ(?)のとある町。ブランチ・タイラー(バーバラ・ハリス)という女性は霊媒師だ。
降霊術師ともいう。
日本では青森県むつ市恐山のイタコが有名だが、いわゆる心霊が降りてきて助言を得る占い師のこと。彼女はそれで生計を立てている。
金持ちの老嬢ジュリア・レインバード(キャスリーン・ネスビット)の自宅で、ブランチは降霊術をおこなった。すると、嘆き悲しむジュリアの妹の霊が現れる。ジュリアの話によれば昔、妹は密かに父無し子を産み、その生まれた男の子は養子に出されたのだという。
ブランチはその男の子を捜し出してほしいとジュリアに依頼される。ジュリアにとって、その子は唯一人の甥っ子。財産を譲りたいのだと。
なんと、ブランチへの報酬は1万ドルであった。これに欲が絡み、内縁の夫ジョージ・ラムレイ(ブルース・ダーン)と共謀してブランチは、その甥っ子を捜し出すことにした。この時まだ、何の手がかりも無かったが、いつものこと、実質的に動き回るのは夫のジョージのほうで、彼は弁護士と偽って方々に動き回るのだった――。

蛇足。
いま私の手元にある『ファミリー・プロット』の公認パンフでは、霊媒師ブランチのことを、《ケチなペテン師》と記している。ブランチのやっていることはインチキで、本当には降霊などしていないと。自分で勝手に演じ、依頼者の話の情況に合わせて心霊のお告げを捏造しているだけなのだが、この《ケチなペテン師》とは、いったいどういうところからくるのだろうか。
『キネマ旬報』1976年8月号で、この映画の特集記事の筆者・金坂健氏は、彼女=ブランチのことを《へぼ霊媒》といい、《えせ霊媒師》とも述べている。ヘボなのかエセなのか、ケチなのかどうかは知らない。この際、なんでもいい。ともかく、インチキ霊媒師であることに変わりない。そんなブランチを、ハリスさんは見事に演じているのだが、結末は、全くそれ以上に“お見事”なのである。
指定されて出演したカレン・ブラックさん
ヒッチコック監督は、その“キネ旬”のインタビューで、こういうことを述べていた。なんとカレン・ブラックさんの出演は、ヒッチコック監督の好み云々で決まったのではなく、ユニヴァーサル側の要求だったと。彼曰く、《くどきおとされた》。
一方のハリスさんの出演については、ヒッチコック監督は素晴らしかったと述べている。何が素晴らしかったのかというと、フレッド・コー(Fred Coe)監督の『千人のピエロ』(“A Thousand Clowns”)で彼女を知り、素晴らしかったのだと。この映画、すなわち『ファミリー・プロット』には、ハリスさんは必要不可欠だったと――。

しかし、それにしてもヒッチコック監督は、ややカレンさんには冷たい評価だ。
会社側の要請で、否応なくカレンさんを出演させたというような主旨の発言をしており、またその場合においても、いざ撮影になれば、全ての権限は私にあるので、思い通りにやれた、というようなことも述べている。そもそもカレンさんが演じたフランという女性は、少々不憫な役柄で、誘拐犯である宝石商アダムソンの片腕となって彼を愛し、共謀するのだけれど、いうなればそれだけのキャラであり、特に重要な人物ではない設定である。
重要な人物ではない、と述べたのは、もちろんヒッチコック監督である――が、私はそう思っていない。
とはいえ、やはりこの映画の主役たる人物は、前述したように、インチキ霊媒師ブランチを演じたハリスさんであることに間違いはない。
しかし、ヒッチコック監督がいっているのは、あくまで自分の映画がサスペンスでありスリラーの作である、というところのストーリーの部分であって、その意味では、確かにフランという女性は、しごく簡単な存在である。
ヒッチコックの映画のほとんどが、観客を恐怖の谷底に突き落とすサスペンスの作である以上に、時には女性を蔑視しながらも、また逆の場合、時には男性を蔑んだりしながらも、結局のところ、彼の映画は、「仲睦まじい男と女」を描いている。
そのラブ・ロマンスの観点からすれば、アダムソンからあまり大事にされていないフランという女性の存在は、きわめて重要であり、それはやはり、カレン・ブラックさんでなければ演じられるものではなかったと思う。
またブランチとジョージの内縁関係の、刺々しくもほのぼのとした夫婦愛は、観ていてとても夢心地な、ロマンティックなものであったろう。つまり、本当の意味で彼=ヒッチコックが独り身の英国紳士であったならば、これほど恐ろしい映画の傑作は作れなかったであろうし、「仲睦まじい男と女」を描いたがゆえに、サスペンスとは、成立するものなのだ。
ということでまた機会があれば、ヒッチコック映画批評でお会いしましょう。その時までさようなら。
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