岸本佐知子さんの饒舌な電話

 筑摩書房のPR誌『ちくま』に連載されている「ネにもつタイプ」は、翻訳家でエッセイストの岸本佐知子さん執筆のコラム。毎回面白くて、つい私は追従して読み耽ってしまっている。
 前回はそう、江戸人おじさんの声の話、それから北斎の“タコ入道”の話であった。

 『ちくま』2025年4月号(No.649)の「ネにもつタイプ」。サブタイトルは、「ミュージカル」。岸本さんが昔、あるミュージカルを一人で観たという話。

それはあのミュージカルではないのか

 ミュージカルの名を、岸本さんはいっさい伏せているのだった。
 別に書いてしまっても、いいんじゃない? と私は思った。海外のロングラン公演モノで、日本でも各都市で上演された、“日本人キャスト版”のミュージカル。岸本さんは、そのミュージカルをこう表している。

《評判どおり舞台は面白く、主演の有名な俳優が意外なほど歌がうまく》…。

 いったい岸本さんは何のミュージカルを観たのか? 当てずっぽうで私はそのミュージカルを、当ててみたくなった。
 よくよく考えて推測するに、そのミュージカルは、『レ・ミゼラブル』(“Les Misérables”)ではないのか――。

 フランスの小説家ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)が書いた小説(1862年)が原作。
 ルイ・フィリップ王時代におけるジャン・ヴァルジャンの投獄記、そして不遇な子コゼットとヴァルジャンの愛に満ちた逃走劇を描いた、壮大なミュージカル――。
 この『レ・ミゼラブル』のポスターだのフライヤー(チラシ)だのは、皆さんも昔、どこかでよく見かけたことがあるだろう。そのエミール・バヤール(Émile Bayard)作の“コゼットを描いた木版画”が、たいへん印象に残る広告だった。

 ミュージカルを観た人の感想が、「いやもう、感動しました!」とか、「良かったですねえ、あの舞台」とかではなく、「面白かった」となるのは、むしろ珍しいミュージカルだと思う。かなりエンタメの濃い要素が演出として含有されていなければ、そう「面白かった」などという感想にはならないはずだ。

 そうなると、有名な海外のミュージカルでは絞られてくる。

 『チェス』とか『スティング』とかは、感想で「面白かった」とはたぶんいわない。『オペラ座の怪人』もしかり。
 『キャッツ』はどうか。
 うーん、ちょっと微妙だ。でもプロの作家さんたる者が、超有名なミュージカルの『キャッツ』を観て、《評判どおり舞台は面白く》なんて、絶対にいわないだろう。しかも『キャッツ』は、仕掛けだらけで格段に難しいミュージカルだから、映画やドラマで名の通った俳優を起用するわけがないし、歌のうまい俳優を起用した例なんて、過去に聞いたことがない。

 『ライオン・キング』や『アナと雪の女王』はどうだろう。
 そんな健気なミュージカルを、岸本さん一人でウキウキしながら観てたなんて、滑稽すぎる。

 もっと昔の、『コーラスライン』。これもまた、日本公演で超有名な俳優さんが演じた話はきかない。
 だとすると、『シカゴ』があやしくなる。あれなら、観た後に誰しも「面白かったァ!!!」といいそうだ。しかもあれ、某Xの有名な俳優さんが主役を演じてもいた。岸本さんも好んで観そうだ。でもね、岸本さんは、《ずっと昔》に観たといっているんですよねえ――。
 岸本さんにとって、《ずっと昔》っていったいいつなのだ?
 まさか、15年くらい前のことを、《ずっと昔》なんていわないんじゃないか。そうだとすると、やはり、《ずっと昔》、有名な俳優が主役で、観た後に「面白い」と称されたであろうロングランのミュージカルというと、『レ・ミゼラブル』しか思い浮かばないのである。もう『レ・ミゼラブル』を赤い字にしてしまおう。

知人からの怪しい電話

 岸本さんがミュージカルを観た数日後、一度だけ会ったことがあるという知り合いから、電話がかかってきたそうである。ご無沙汰していますみたいな挨拶がてら、なんてことはない雑談に発展。そこで、こんなことをいわれたらしい。

「ところで、ミュージカルなんて観たりします?」

 思いがけず、偶然にも数日前にミュージカル――私の勝手な推測では『レ・ミゼラブル』――を観たばかり。岸本さんは素直に、「観ました」と返事をした。

 その人も、そのミュージカルを観たようなのだ。そこから一気に話題がそのミュージカルになって、あれやこれやとミュージカルの話をしまくったらしい。
 何度もしつこく書くけれど、私の勝手な推測では、それは『レ・ミゼラブル』。たぶん、絶対に。おぼろげに思い出されるのは、主役の鹿賀丈史さんの歌声。けっこう意外でしょう、“料理の鉄人”のあの方が、歌うなんて。
 いいえ、とんでもございません。あの方、れっきとしたミュージカル俳優。歌手ですよ。もともとは、劇団四季出身なので、歌って踊ってのエキサイティングな舞台なんて、お茶の子さいさいなのです。あの時、日本人で初めてコゼット役を演じたのは、なんと斉藤由貴さん。日本人で初めて――なんて書いてしまいましたが、遙か昔、黒岩涙香の『噫無情』の頃の『レ・ミゼラブル』の舞台については、恐縮ですが私は不勉強なので、何も存じ上げられません。

 おっと、話を戻す。
 ともかく、岸本さんにかかってきたその電話は、いやその人は、観劇済のミュージカルの話に終始し、すっかり岸本さんは圧倒されてしまったようである。
 それで今度また、観に行く時があったら、ご一緒しましょうねといわれ、黒い受話器を置いた岸本さん。いやこれ、黒い受話器を置いたなんてどこにも書いてないし、もしかしたらこの電話、ケータイの時代だったかもしれないから、黒い受話器を置いた想像は、私の勝手な作り話である。

恰好の獲物

 岸本さんは電話を切った後、妙な気持ちになったらしい。

 まだ一度しか会ったことがない人なのに、偶然同じミュージカルを観たなんて。そんなことがあるだろうか。いや、偶然を装って、電話をかけてきたのではないか――。

 そんな何故? の疑問符が頭のてっぺんにまとわりついて、離れなくなってしまった岸本さん。
 何故? なぜ? ナゼ? だらけの岸本さんの回顧録的文章が面白くて、私はこれを何度も読み返してしまった。

ミュージカルの話がしたくてわざわざ電話をかけたと思われるのが恥ずかしかったんだろうか。誰かにミュージカル愛を熱く語りたいけれど周囲に誰も観ている人がいなくて悶々としているところに恰好の獲物が現れたと思ったんだろうか。それで自然に見えるようなシナリオを練ってから電話をかけたのだろうか。

岸本佐知子「ネにもつタイプ」「ミュージカル」より引用

 私はこれを読んで、思った。
 その通りだと思う。でもそれだっていいじゃない…。

 その人からすれば、いかにもミュージカル――たぶん絶対にそれは『レ・ミゼラブル』――を観ていそうな岸本さんが、恰好の獲物だったといえよう。
 だってあの頃の『レ・ミゼラブル』って、すごい人気だったというかものすごい評判で、野口五郎さんの舞台上の宣材写真の顔が、いまだに思い浮かぶもんね。そう、斉藤晴彦さんも出てたよねって、誰かに話しかけたくなりますもん、絶対に。

 しかもあれ、帝劇。
 畏れ多い、憧れの帝国劇場。いっそのこと、大きい字にしましょうか。

 帝国劇場

 帝劇のさ、「ハムと辛子バターのサンドイッチ」は忘れられませんよ。下手すれば、長い休憩の時にそれが食べたくて食べたくて、無駄に森繁久彌さんの舞台観に行ったりもしたからね。屋根の…いや、そうじゃなくて、島田歌穂さんキレイだったよなあ。うん、確かに『レ・ミゼラブル』面白かったと思うよ。

 岸本さんは文中、一言も『レ・ミゼラブル』とは書いていない――。
 けれど私は、すっかり『レ・ミゼラブル』と思い込んでいる。信じ込んでいる。
 もしそれが、実は全然違って、『アナと雪の女王』だったらどうしよう。ここまでの話、全部無駄じゃないか。

 それでも、いいと、思うのである。
 まあ、それでもいいか、で、一杯やる。

 ところで帝国劇場は、ついこのあいだ、「休館」になったばかりなのだ。
 新しい帝劇が完成した暁には、ぜひ『レ・ミゼラブル』を上演していただきたいものである。
 おみやげに持って帰る、「ハムと辛子バターのサンドイッチ」も忘れずに用意しておいてくださいね、東宝株式会社様――。

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました