人新世のパンツ論⑩―日本人の羞恥心とパンツの謀略

「なにやら新しいブレンデッドのスコッチ・ウイスキーが出たらしいよ」
 琥珀色の飲み物を厳かに嗜みながら、自慢気に私はそう口走った矢先、それが間違いだと気づいて狼狽した。

 てっきり、“グレイディ・サイズモア”は、ウイスキーの銘柄だとばかり思ったのだ。
 だがこれは、ウイスキーなんかではない。人の名であった。アメリカのメジャーリーグで活躍した、元プロ野球選手のグレイディ・サイズモア(Grady Sizemore)氏の名だった。
 そんなことで顔から火が出るくらい「恥ずかしい」思いをしたのだった。幸い、これに関して気づかれずに済んだのは、内心、“グレイディ・サイズモア”の「琥珀色の液体」を、すっかり頭に思い浮かべていて、〈是非にそれを飲んでみたい〉と思ったことだ。
 スコットランドのとあるディスティラリー(蒸留所)の、良質な樽で熟成された、“グレイディ・サイズモア”。どんなに美味い酒であろうかと――。

 この手の「恥ずかしい」失敗は、しょっちゅうある。
 ならば、下着のパンツにつらなる、羞恥心をかき乱されるような「恥ずかしい」話をしてみるしかない。たとえつまらない話だとしても、なにか意味深気な新しい発見があるかもしれないからだ。

大人になりかけた得体のしれないもの

 パンツを穿いていて「恥ずかしい」と思うわけがなかった。子どもの頃はたしかにそんな感じだった。風呂から上がってパンツ一丁になり、家中を走り回るのは茶飯事だったし、小学校の教室で体育着に着替える時、女子の前でパンツ姿をさらしても、なんということもなかった。ところが。

 中学生になってからは、たちまち羞恥心に駆られるようになった。
 羞恥心…。
 三省堂の『新明解国語辞典』(第八版)で「羞恥」(しゅうち)をひくと、《[外から受ける恥辱と違って]内から沸き上がってくるような恥ずかしさ》とある。「羞恥心」(しゅうちしん)は《みんなが恥ずかしいと思う事を、その人としても恥ずかしい思う心情》

 中学生になって、自身の下腹部でどんどん変化する得体のしれないものがそこにぶら下がっているという感覚は、未知なる領域の悩みの種であった。決して人に見られてはならない得体のしれないものが、布一枚きりで外野と隔てていることに、大いなる不安を覚えるのだった。
 その布一枚がきわどい。「白のブリーフ」である。もし、内側に茂った黒黒としたものがうっすらと映って、誰かに気づかれはしないだろうか――。布の厚みはたった数ミリしかない。たったそれきりで覆っているそれ自体を他人にさらすことも、「恥ずかしい」形象の具体なのであった。

 母校の中学校では、体育着のトレパン(紺色の短パン)を穿く習慣がついた。布一枚の下着――これは当時、男子は「白のブリーフ」を着用するよう校則に規定されていた――の上に、体育着のトレパンを常に穿くようになって、この安全スタイルが羞恥心の防波堤となりえた。
 ともあれ、「白のブリーフ」を人前でさらす頻度は、これによって限りなくゼロになったため、いっそう得体のしれないものとそれを隠し覆っている布一枚の恐怖心は増幅していったのである。

グンゼの「白のブリーフ」

 思い起こせば、私が小学校時代から穿いていたのは、グンゼの「白のブリーフ」であった。
 泣く子も黙るグンゼのパンツ――。

 昭和時代の片田舎の町であったから、スーパーマーケットも少なく、それ以外のメーカーのパンツを親が買ってくることは、殆どなかったといっていい。
 高校1年の時に穿くのをやめて以来、このグンゼのスタンダードな「白のブリーフ」をそれ以降穿いた記憶は、ない。昨年末、「人新世のパンツ論④―白のブリーフ呪縛」で貴重なフクスケのブリーフを試着した。振り返ればあれは、特異な体験であった。であるというのなら、子どもの頃に穿いていた、古いタイプのグンゼのブリーフを穿いてみたらどうなるか――。試着してみたくなった。
 多少、苦労して入手したのである。
 おそらくこのアイテムは、90年代前半のデッドストックと思われる。「GQ-1」という商品名。まさしく、昭和の頃のそれに近い「白のブリーフ」だ。
《大切にしたい 自然な着ごこち 綿100%》

 私はつい、顔を赤らめてしまった。
 そんなに大切にしてくれるのか、このブリーフさんは――。
 心にしみるありがたいお言葉を頂戴し、子どものようにわくわくした気分で、ゆるりとそれに脚を通した。そういえばあの頃、パンツ一丁でキャッキャいいながら部屋中を駆けずり回ったっけなあ。遠い記憶がよみがえる、柔らかな感触。大切にしたい、自然な着ごこち、綿100%――。
 そうして撮影した自分のパンツ姿を、客観的に見たわけである。

〈うわああああああああああああああああ〉
 昔穿いていたであろう懐かしいブリーフとの邂逅。
 それをどんな言葉で表現すべきなのだろう。込み上げてきた感動からの、大転落といえばいいのか、自分の不様な姿への落胆というものだったのか…。あの頃、もし人に見られたら「恥ずかしい」と全身で怯えた、そんなフラッシュバックだったのだろうか。

大切にしたい、自然な着ごこち。綿100%で、ソフトな肌ざわりと優れた吸湿性。型くずれしない伸縮性の良さと、ほころびることのないていねいな縫製。着ごこちの良さを追求したカッティングとデザイン。

グンゼ「GQ-1」のパッケージより引用

 もちろん、この穿き心地から考察して、このブリーフが優れた縫製品であることがわかる。機能性はいうに及ばず、パーフェクトである。しかし、でも――うわああああああああああああああああ――という見た目。見た目からくる、恥ずかしさ? この感覚はいったい。

思春期少年にはきつすぎたブリーフ

 グンゼの「白のブリーフ」という王道。
 ばっちりそれを謳歌したい人にはたまらない、気高きアイテムだ。
 しかし、やはりデザインとしてみれば、アメリカのジョッキーなどと比べると、シンプルで軽快で確固たるメッセージ性に欠ける。このパンツの中に何か、見せてはならないものが存在する、それを隠し覆っている…というイマジネーションを拭い去ることができなくなってしまう。
 もっと正直にいってしまえば、中学生の頃に味わった、あの「恥ずかしい」気持ちが込み上げてくるのだ。人前でこの姿を絶対に見られたくない――と思う残念な気持ち。

 だがね、こんなオールマイティなパンツはないのだよ、ということも重々わかっている。やっぱり君は、ミスターブリーフなんだよ。世紀を超えたキングなのだ。

 つまりまだ、大人になりきれていない体のあの頃は、そうじゃなかったんです。こういうことなのです。
 もしね、このブリーフを穿いていて、そこに男性生理的なシミでも付いていて、それを友達とか、好きな女の子に見られでもしたら、物笑いにされる…。
 それはもう、恐怖体験だったわけですよ。
 さらにいえば、成長期真っ盛りの年頃だったのね。もし、フロント部分の端っこから、ちょろっと黒いものが飛び出ていたりでもしたら…。
 なんという危険なパンツなのだ。一生を台無しにするかもしれないぞ。
 おいおい、こんな危ないパンツを絶対穿かなきゃならないのか? それ想像したらさ、恐怖と絶望と悲しみしかなく、僕たちは永遠に、パンツなんて穿きたくなくなるじゃないか――。
 それがあの頃の僕たちの、半ば妄想を含んだ、切実な心の叫びだったわけである。

 そう絶対に、絶対的に、既存のトレパンを外すわけにはいかなかったのだ。「白のブリーフ」の上に穿く紺色のトレパンは、いわばその防波堤――第二の下着だった。
 むろん今となっては、ああいうタイプのブリーフが、いかに高機能で男性の生理にまんべんなく対応し、保護してくれるかを知っている。純国産のスグレモノであることも、承知している。
 あの昭和の中学生時代の校則の規定では、「白のブリーフ」しか穿けなかった。それ以外の色のブリーフだとか、柄のトランクスなどは好ましからざるもの、なのであった(「人新世のパンツ論①―プロローグ」参照)。
 それはどう考えても精神衛生上、いいわけがない。思春期の子どもたちをどれだけ不安と恐怖に貶めたか。過剰な思い込みと揶揄される向きもあるが、こうしたことは、おそらくあの頃の時代の男子が大多数抱いていたであろう怨念的事実として、あえて述べておきたかったのである。

高校時代のトレパン事件・その謀略

 高校時代になると、もう少し馬鹿っぽい部分での羞恥心をかき乱されるエピソードが多かった。私たちのシモの恥を遠ざけてくれていた、第二の下着であるトレパンが、突然牙を向いて襲いかかるという話――。
 ある友人の、トレパンをめぐる「恥ずかしい」事件をここで勝手に暴露したい。もう数十年も昔のことだ。当事者も笑い話として受け止めてくれるだろう。

 あらためて申し上げておくと、昭和末期から平成の初めにかけて――。それが、私の高校時代である。SNSはおろか、まだテレネットのたぐいが日本の一般家庭でほとんど普及していない1989年から90年くらいの大昔と思っていただきたい。
 それともう一つ。
 工業高校生活をあるがままに過ごしていた私は、心身の成長期に伴いつつも、あらゆる部分における「露出」へのまなざしに、まだじゅうぶん慣れていなかった。他人のそうしたものの「露出」に困惑し、ドキドキしたり、逆にひどく好奇心に駆られたりしたのだった。

 ついでに少々、下品になりかねない話を挿し込むけれど、その頃の男子高校生のあいだでは、「乳首が起つ」という自身の体のおもわぬ現象に、いくぶん冷笑を交えながら興味を持ち、そのことの話題で会話が熱を帯びることがあった。
 誰かがいった。「下も起てば上も起つ」。
 こんな機能美な、いや決して上等な慣用句にもならない“下ネタ”ジョークで盛り上がるくらい馬鹿っぽい、その低俗さをあからさまに醸し出す空気は、私は好きだ。
 しかるに、成長期を伴う学校生活の几帳面かつ平凡な身体的エトランゼは、可愛げに毎日、ボクたちの授業中であろうがなかろうが、眠気覚ましにふいと訪れることがあり、工業高校男子はまさにはつらつとした男子たる肉体の豊饒そのものだったのである。

 そうして夏本番――暑さ真っ盛りのある日、事件が起きた。

 水泳の授業のため、皆が教室内で水泳パンツに着替える。
 今でこそ学生は、ボディスーツのような上半身と下腹部を覆うタイプの水着を着用したりもするだろうが、あの頃は当然ながら、男子は、上半身裸で水泳用の短パンというスタイルであった。

 着替えの途中で教室内から叫び声が聞こえた。
「あ! 水着を持ってくるのを忘れちまったァァァ!!!!」
 よくあることだが、そういう間抜けなクラスメイトの一人が、ここでの主人公である。仮に、彼の名をヨシとしておこう。
 ヨシは結局、炎天下のプールサイドで寡黙に見学することを頑なに拒否し、幸いにして体育教師が持参していたトレパンを借りることができた。プールサイドで見学などというつまらぬ時間を免れることができたわけだ。ヨシはたいへん生徒思いの心優しい体育教師に恵まれたのだった。

 授業開始。生徒はプールサイドに整列し、準備体操をする。そのあと、身体を冷水に慣らし、プールに飛び込む。
 いうまでもなく、生徒は大はしゃぎである。もはや、子ども同然であった。
 いかにも馬鹿っぽい工業高校男子のありふれた光景――。水を浴びると人間は、どうしてこうはしゃいでしまうのだろうか。波打つ水の感触に興奮し、躍動し、声を荒げる。ハメを外し、笑顔が絶えない。
 しかし、あくまで水泳の授業である。体育教師の指示に従って、一列に並び一人ずつ泳ぎだす。25m先の向こう側でターンをし、戻ってくる。次の者が泳ぎだす。その反復。水面が静まる気配はまるでない。

 実にゆるりとした内容で、数十分「泳いだ」という満喫感を生徒たちは味わえたのだった。
 そのあと、激しい運動をした体をじゅうぶんに休ませるという意味合いで、休憩タイムとなった。水に濡れた生徒たちがプールから上がってくる。腰を下ろし、しばし体を温める。
 その時、どこからか悲鳴が上がった。ヨシの声だった。

 それはまるで、映画『犬神家の一族』の1シーンのようであった。
 仮面を被ったスケキヨ青年が、何者かに襲われ、悲鳴を上げたときの、あの素っ頓狂な声――。
 だが、いまは闇夜ではない。真昼である。
 あのような、犬神佐兵衛翁亡き妄執に駆られた一族が、今か今かと莫大な遺産相続を狙っている屋敷ではない。田舎町の学校の、ヘボいプールサイドにすぎない。いったいそこで、何が起きたというのか。

 生徒たちが立ち上がって、ヨシの姿を見た。
 彼の細い体に異変が生じていたのだ。異変というより、奇妙な物体…。
 つまり、誰がなんといおうが、ヨシの穿いている白いトレパンの下腹部が、実に旺盛に黒黒としていたのだ。しかもよく見ると、そこには幼気なセミの亡骸が、白いトレパンから透けて見え、ヨシは突っ立っていたのである。
 はい、犬神家の映画ではないから、そこでフクロウも鳴かないし雷鳴も轟きません。あしからず――。

 見上げれば、真昼の青空が美しかった。何の変哲もない日常の中で、ぽつりとそこだけが奇妙なのであった。彼にしてみれば、突然の出来事だったわけだが…。しかし、よくよく見てもそれは、セミの亡骸としか思えなかった。誰かがボソッとつぶやいた。
「ヨシ…かわいいな」
 かわいいな????
 かわいい、わけがないだろう。ヨシは涙目になって、恥ずかしそうに股間を押さえていた。
 顛末としての事件簿を簡単明瞭に記録するならば、当人のヨシは泳いでいる時に全く気づかなかったが、プールから出て、はじめてトレパンが透けていることに気づいた――以上である。窃盗でも強姦でも殺人でもない。ただ単に真っ黒な恥部のセミの亡骸をさらしたにすぎない。つまり彼は、一生の不覚を演じきったのである。

 そんな透けるような白いトレパンを貸したのは、体育教師の罠…謀略に違いなかった。なんのお咎めもなく教師が生徒にいたずらをするなんてことは、男子の多い工業高校では茶飯事だった。あの頃は。
 ヨシはクラスメイトの前で大恥をかいた。しかしそれは、よりいっそうヨシがヨシらしく、あるがままのヨシをさらけ出したことにすぎず、それもまたひと夏の経験なのであった。
 ジリジリと鳴くアブラゼミの羽化は、夜こっそりとおこなわれるらしい。夜こっそりと。明ければそこに、セミの亡骸があるということ。こうして生き物はすべからく、大人の虫になっていく――。

脱ぐ恥ずかしさへの無抵抗

 国際会議でロシア語の通訳に従事し、作家であった米原万里氏は、その自著『パンツの面目ふんどしの沽券』(ちくま文庫)の中で、日本人女性の「脱ぎ」の羞恥心について、いくつかエピソードを並べていた。

 まず何より私は、このところこんなことを思うのだ。
 この夏の日本は、本当に暑い。「35度超え」だのなんだの、連日暑さに耐えかねる経験をしている。
 暑いと感じれば、衣服を脱ぎたくなるだろう。家の中で誰も居なければ、パンツ一丁になれる。私もたびたびそれをやった。それでも尚、暑さを凌ぎづらい。それがこの夏の猛暑である。
 パンツ一丁なんて、きわめて羞恥心の一線が、ぐらつきかけているといっていい。大人がそれをやっていいものであろうか。夏季の日常生活で、パンツ一丁で過ごすのがだんだん普通になってくるのであれば、なおさら羞恥心は発達しかねるわけだが、おしゃれなパンツを穿けば、なんてことはないことになる。

 閑話休題。米原氏が本に書いた女性の「脱ぎ」の話をしたい。

 日本人の女の子は、独りでトイレに行かないらしい。あの子はいま用足しに行った――と他人に思われるのが恥ずかしいのだという。男性にはあまりない観念である。
 したがって女の子は、学校などでは友達に付き添ってもらってトイレに行く。どちらが用足しに行ったか曖昧になる、という話なのだけれど、これに関しては何も意見を述べないでおく。
 面白いのは、わざわざ付き添ってもらった友達には、トイレで用を足している音を「聞かれたくない」ということだ。個室で水を流し続けるのだという(とはいえ、ずいぶん昔からそれの代替装置が個室に設置してあったりするようだ)。
 これはまあ、よく聞く話である。米原氏は、そういう日本人女性の恥じらいの心、すなわち女性の羞恥心の極みにふれ、ひどく感激したのだった。

 さらに米原氏は、こういうことで不思議がっている。
 日本人の女の子たちは、大浴場の更衣室で特に恥じらいもなく下着を脱ぎ、素っ裸になる。外国人なら、そういう公衆浴場で裸になることをひどくためらうのだそうだ。
 日本人は、ある規定の場所において裸になることへの抵抗感、すなわち「恥ずかしい」と思う気持ちがめっぽう薄い。ただし女性(女の子?)の場合は、浴場で素っ裸になると、下腹部を手ぬぐいで隠すという。米原氏はいまさらなんで? と首を傾げるような疑問を呈して述べていた。

炸裂する羞恥心

 かつて、中学生だった私が「白のブリーフ」で「恥ずかしい」気持ちに駆られたこと、高校時代にヨシがクラスメイトの前でセミの亡骸をさらけ出してしまったこと、そして女の子たちが素っ裸になった公衆浴場においても尚「前を隠す」ということ。これらを総合して、日本人の羞恥心について最後に考えてみたい。

 肉体あるいはその一部を外面にさらす「恥ずかしい」気持ちは、万国共通の心理といえる。いわゆるプライベートパーツをやたら人前でさらしてはいけないことを、誰しも幼少期にしつけられてきたからだ。
 そしてもし、何かの折に恥部がさらけ出されてしまい、それが他者の目に映った時に、その場の空気の具合の悪さから、目線をずらしての遠慮、忌避などの態度が双方ともに生じるわけだ。これを「恥じらい」ともいうだろう。
 考えうるに、女の子が公衆浴場で「前を隠す」行為は、他者に対するへりくだった遠慮だといえる。〈私の恥部はとりあえず伏せておきたいのです〉という謙遜を所作で示すことで、相手への露骨な挑発を避けるねらいがある。その人の隠れ持った部分(固有の記号)の誇示は、平穏な社会生活を乱す恐れがあると、考えるからである。
 こうした所作は男性も同じで、公衆浴場などで下腹部をタオルで覆いながら移動するのは、その男性性の露骨な誇示――生殖器への言及――を公然と避け、いわば帯刀を下ろして争いを起こさない暗喩的な意味があるのではないだろうか。

 それが半ば不完全に終わる時――例えば、下腹部を覆うためのタオルや手ぬぐいなどをうっかり持ってきていなかったりした時や、誰も居ないと思っていた場所で立ち小便をしていて、偶然隅っこから人が現れ、勇壮美麗な滝の放流をすっかり眺められてしまった時など、実に感慨深く、互いの羞恥心がかき乱されることになる。

§

 得てして下着の効果は、こうした恥部の露出を防護し、平穏無事な社会生活を送るための、画期的な装置だといえよう。肉体あるいはその一部を外面にさらした時のなんとも落ち着かない心持ちを、収束に向かわせるための叡智の結晶なのだとも考えられる。

 日本人はとくに、相手を慮る気持ちが優先される。それが過剰なのかどうかは、民族性の比較における物差しがないから推し量ることができない。だが、他国人にとっては、奇異に映るのかもしれない。しかし、それがかえって、善き日本人的な「侘び」と「寂び」の思想ともつながり、女性においては「やまとなでしこ」などといわれ、美徳の一芸として好まれることもしばしばあるのだろう。

 このような日本人的な美徳感覚の解釈は、時代とともにすり減り、「恥ずかしい」と思う尺度は世代や環境によって大きく様変わりしてしまった感がある。
 したがって、「人新世のパンツ論」は、ほとんど日本人的な解釈を与しない。パンツそのものを再定義し、その身だしなみとおしゃれに目覚めること――。民族性はとくに関係ないのだ。パンツとおしゃれの関係、このことに鈍感であり続けるのは、逆に「恥ずかしい」ことのように思われる。

 シモの話や下着の話なんていやらしい、馬鹿げている! と思う者は、自分のパンツを普段洗ってくださっている連れの方への愛情など、ひょっとしたら気にもしていないのではないか。新しいパンツとの付き合い方にぜひ目覚めていただきたい。次回もまたよろしく。

 たいへん長くなってしまって恐縮である。ではちょっと一服…。
 “グレイディ・サイズモア”を飲んでみる?

 次回「人新世のパンツ論⑪―安心安全なトランクスと海パンの話」はこちら

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